ぼくが考えたこと。

ぼく(28才、フリーター)が一生懸命考えたことについて。極個人的。

『コンジアム』

クオリティはさておき、ようやく『密やかな結晶』が終わった!

ようやく映画『コンジアム』について書ける!やったね!

正直、『雪沼とその周辺』も、『実録・連合赤軍(以下略』も、『密やかな結晶』も、感想文として書くことが多い!!!!!!!文章が長えんだよ!!!!!!!

俺の文章力云々はもちろんあるだろうけど、それでも思ったことや感じたことが多くて大変なんだよ!!!!

こんなのばっかり続いたら更新する習慣もつかねえっての!!!!!!

だから『コンジアム』が秒殺するぜ!!!!!(秒殺に値する映画だったって話)

 

 

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はい、ということで『コンジアム』というPOVホラー映画です。

暇つぶしになんだかつまらない映画でも、という感じで見始めたので、ちょうどいい感じでした。

正直、POVホラーなんて『パラノーマルアクティビティ』シリーズが出オチみたいなイメージがどうしてもあって(いうてもパラノーマルシリーズをぽろぽろ観たの以外には『グレイブエンカウンターズ』くらいしか観た記憶ないのだけど)、初出のインパクトが最大の魅力だったPOVの何番煎じやねん、って話。

 

ざっくりストーリーに触れておくと、韓国の動画配信者の若者たちが世界七大心霊スポットのうちの一つである精神病院で生放送を敢行するというもの。

うん、二行で説明できるあらすじって素晴らしい。

 

最初に散々こき下ろしたけど、内容自体はめちゃくちゃ面白くないわけでもない。

そこそこ緊張感があって、そこそこ怖い。怪異のビジュアルもそこそこ効いている。

でも、結局はちゃんと普通のPOVホラー。それ以上でもそれ以下でもないって感じでした。

 

個人的なフェティッシュなのかもしれないけれど、ホラーはやっぱり「因」と「果」を大切にしてほしいと思っちゃう。

何かしらの原因があって、怪異が発生する。それなら、その怪異は「因」を受けた「果」でないといけない。あるいは、物語の構成に「因」と「果」を正しく組み込んでほしい。

 

個人的に思い入れの強いホラーゲーム『零』シリーズで例えると、廊下から飛び降りて首が折れた女は、ちゃんと首が曲がっている。目が不自由な故に迷子にならないように鈴を持たされていた千歳ちゃんは、登場前に鈴の音が聞こえる。虚を封じる時間稼ぎにされる「楔」という存在は、生前に大きな苦痛を与えた方が力が強まるとされているから、全身なます切りにされている。だから、楔に殺された人々の霊も全身が傷だらけ。

この因果が、今回の『コンジアム』には全然しっくりこない。精神病患者だから拘束具がつけられているとか、小出しにするホラーなジャブをもっと特徴づけるとか、もっと意味を持たせてほしかった。

画的なインパクトが一番強いシーンだって、ただ目が真っ黒になってるだけやん。それ、確かに画的には怖いけど、コンジアム感なくない?

 

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と、言った具合なんですけど、実は一番言いたいことは他にあるんです。

そう、アヨンちゃんです。

撮影に参加した女の子のうちの一人、アヨンちゃん(実際の役者名もアヨンちゃんらしい)が、もうかわいい!なにこれ!え!かわいい!!!!!!

アヨンちゃんじゃない女の子もかわいい(一人はそんなにかわいくないけどおっぱいがでけえ!)んだけど、とにかくアヨンちゃんがかわいい!

特に、撮影前の顔合わせの時のアヨンちゃん!可愛すぎて画像引っ張ってきたわ!(言うまでもなく一番左の子)

 

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なにこの絶妙に男慣れしてない感というか、垢抜けてない感というか!

この冒頭のアヨンちゃんにやられて、結局最後までアヨンちゃんアヨンちゃんで楽しく観れました。

あまりの可愛さにすぐにGoogle検索したんだけど、きれいな服を着ているときのアヨンちゃんはそこまで刺さらなかったりするんだよね。お顔の感じとか、前述の服装から想起されるイメージが、たぶん性癖に刺さったんだろう。個人的には稀有な例。

 

ということで、みんなも機会があったらアヨンちゃん、観てね!(映画自体はアヨンちゃん込みで60点くらいでした)

『密やかな結晶』

今年二冊目の小説は、毎度お馴染み、大好きで大好きでたまらない小川洋子さんの『密やかな結晶』でした。

「でした」というのも、実は読み終わったのはこれを書いている十日ほど前で、本当はもっと早くにこの文章を綴るべきだったんです。さっと書けなかったのは自らの怠惰によるところが二割、残りの八割は本書の内容のヤバさ。ぶっちゃけ年始二冊目でもう今年一位が出てしまった可能性すらある。

とりあえず感想を綴るべく文章を書き始めたけれど、はたしてどこまでこの胸の内側に秘めているものを誠実に忠実に文章にできるか。

正直めちゃくちゃ気が進まないけれど、未来の自分のために逃げ出さないぞう。

 

 

ということで、小川洋子さんの『密やかな結晶』。

最初に世に出たのは1994年(!!!)のことらしい。私が三歳の頃。

そんな本書は2019年に全米図書賞、2020年にブッカー国際賞というイギリスの賞で最終候補まで残ったみたい。それ故かはわからないけど、文庫版が新しく発売されるというタイミングで手に取ることができた。小川洋子氏が大好きとはいえ、全部もれなく買っている訳ではないので、そういう意味ではこのタイミングで本書を手に取ることができてめちゃくちゃよかったなって思う。

 

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あらすじは画像の通り。

まず言及したいのは、この「消滅」について。

消滅は朝起きたら唐突にやって来ていて、島の住民はそれを肌で感じとる。

消滅したものは突然跡形もなく消えるのではなく、徐々に消えてなくなる。消滅についてわかりやすく描写している、冒頭の鳥が消滅するシーンから一部引用。

 

(以下引用)

「あれは、観測所で父さんと一緒に見たことのある鳥だったかしら」

そう思った瞬間、わたしは心の中の、鳥に関わりのあるすべてを失っていることに気づいた。鳥という言葉の意味も、鳥に対する感情も、鳥にまつわる記憶も、とにかくすべてを。

 

せめてその羽ばたき方や、さえずりや、色の具合を、自分の中にとどめておこうとしたが、無駄だった。父さんとの思い出に満ちているはずの鳥が、もはや何の温かい感情も呼び起こしてはくれなかった。それは羽を上下させることで宙に浮いている、ただの生き物にすぎなかった。

 

インコや文鳥やカナリヤたちは何かの気配を感じて、かごの中で羽をばたつかせていた。飼い主たちはみんな無口で、ぼんやりした表情をしていた。今回の消滅に、まだ心がなじんでいない様子だった。

彼らはそれぞれのやり方で、自分の鳥とお別れのあいさつをしていた。名前を呼んだり、頬ずりをしたり、口うつしで餌をやっている人もいた。一通りそういう儀式が終わると、みんな空に向けてかごの扉を一杯に開いた。鳥たちは最初戸惑ったように飼い主の周りを飛んでいたが、やがて遠くの空に吸い込まれ、見えなくなってしまった。

 

(以上、引用終わり)

 

細かい要素を並べるよりも、本文を引用するのが一番早くて、正確で、わかりやすいことの良い例ですね、、

とにかく、こんな感じで島からはいろいろなものが消えていく。リボン、香水、フェリー、エメラルド‥

島で暮らす人々は、大袈裟に嘆いたりせず、その消滅を受け入れながら暮らしている。

 

先述の引用箇所の中にも飼っている鳥を逃がすシーンがあったけど、消滅したものは島から全てなくさなければならない。それは義務だから仕方なく、とかではなく、消滅するということは島で暮らしている人々の心からも消えてしまうということなので、そうせざるを得ない、というニュアンスらしい。ここでも写真が消滅するシーンから引用。

 

(以下引用)

「新しい心の空洞が燃やすことを求めるの。何も感じないはずの空洞が、燃やすことに関しては痛いくらいにわたしを突き上げてくるの。全部が灰になった時、やっとそれはおさまるんです。その頃にはたぶん、写真という言葉の意味さえ思い出せなくなっているでしょうね。」

(以上、引用終わり)

 

消滅に関わる文章はあまりにも素敵なものが多すぎて、引用まみれになってしまうからこれくらいにしておこうと思う。

消滅なんてもちろん現実に存在するわけではないけれど、小川洋子氏はその我々の常識ではありえないとされることも平然と、そして切実に描き出す。

消滅の過程も、消滅を受け入れていく人々も、淡々と、それでいて慎ましやかに描かれており、それが「小川洋子的静寂」(なんて頭の悪い形容のしかただろう)、みたいなものを紡いでいく。最初から最後まで、例え何が消滅しようとも、この小説はずっと穏やかだった。

 

 

ただ、ずっと穏やかなままではお話にならない。(小川洋子氏の文章ならばそれだけでも成立する気もするけれど。)

主人公である「わたし」は小説を書いていて、その担当編集者であるR氏を自宅にある隠し部屋にかくまうことになる。R氏は消滅が続く島において消滅したものの記憶を保持し続けることできる人間で、秘密警察にばれたら逮捕されてしまうからだ。

隠し部屋、秘密警察など、ナチスドイツによるユダヤ人迫害を彷彿とさせる展開。(実際に、小川洋子氏はアンネの日記に大きな影響を受けたらしく、アンネフランク関係の著書もあるらしい)

隠し部屋を作り、R氏をかくまうのを手伝ってくれるのが、昔からずっと家族ぐるみで交流があるおじいさん。

「わたし」、R氏、おじいさんの三人が主な登場人物。

 

消滅が進み、緩やかに終わっていく島。

隠し部屋に匿っているR氏、いつでも味方になって協力してくれるおじいさんとの交流。

迫り来る秘密警察の「記憶狩り」の恐怖。

ストーリーについては、大体こんな感じ。

 

 

 

ということで、以下からはネタバレ等の考慮なし、正しいかどうかもおいといて、とりあえず個人的な感想を好き勝手かいていくパート。

 

 

第一に言及したいのは、小説家である「わたし」の書いている小説について。

何かを失う小説ばかり書いている「わたし」は、声を失ったタイピストが、恋人(タイプ教室の先生)と一緒になくした声を探す小説を書いている。

本当はありふれた愛情で結ばれ、声を探すためにタイプ工場や、岬の灯台や、病理学教室の冷凍庫や文房具屋さんの倉庫を旅して歩く(原文まま)物語になるはずだったのに、気づいたら主人公は恋人のタイプ教室の先生に監禁されている。

「とうとう小説の中の彼女も閉じ込められてしまったわ」

R氏を狭い部屋に閉じ込めて(保護して)いる「わたし」は、そんなことを思う。

 

ちょっとだけ脱線するけれど、恋人を閉じ込めたタイプ教室の先生が語る閉じ込めた理由がとても良い。

 

(以下引用)

「教室ではみんな無口だ。キーを叩く間お喋りする生徒なんていない。指だけに神経を集中させていればいいんだ。指には規則があるけど、声にはない。それが最も僕の心を乱す点だ。タイプの音だけが響く中、少しでも正確に一字でも多く僕の命令に従おうと、指がけなげに動き続けている……。すばらしい光景だと思わないかい?ところが、授業の終わりがくる。指がキーから離れる。するともう君は好き勝手なことを喋り始める。」

(以上引用終わり)

 

とても歪で、どことなく官能的で、狂気じみているかんじ。『薬指の標本』を思い出させるような。

文庫版解説の言葉を借りるなら、

「蜘蛛の巣にかかった蝶が、蜘蛛の毒針に刺され、うっとりしびれていくような、少々倒錯のにおいのする官能的な状態」

これが大好物だから、小川洋子作品を読み続けている気がする。

 

話を戻して、「わたし」が書いているこの小説は、『密やかな結晶』の本編を示唆するような内容になっている。

恋人に閉じ込められた小説の主人公と、担当編集であるR氏をかくまう(閉じ込める)「わたし」。

もちろん、R氏を閉じ込めているのは保護のためであるのだけど、それでもR氏を閉じ込めている間は、R氏は自分の奥さんや、生まれたばかりの子供に会うことはできない。

その状況は、「わたし」がR氏を独占している、とも言える。

そして、所々にちりばめられた「わたし」の妖しい台詞。

 

(以下引用)

「彼はもう、あの部屋だけでしか生きていけないのよ。彼の心は濃密になりすぎているわ。外の世界へ出ていったら、無理矢理水面に引き上げられた深海魚みたいに、体がばらばらにちぎれてしまう。だからわたしは、彼を抱きかかえて海の底に沈めているの。」

 (引用終わり)

 

「わたし」とR氏の関係はところどころに官能の色を帯びる。

狭い隠し部屋で寄り添う二人。

 

(以下引用)

「この鼓動の向こう側に、わたしがなくしてしまった記憶がたくさん詰め込まれているのかしら」

「わたしはそう言おうとしたが、彼が唇をふさいだので、声にすることはできなかった」

「わたしは彼の身体の輪郭を正確になぞることができた。筋肉の一つ一つがどんなふうに動き、関節がどんな角度に曲がり、血管がどんな模様で透けて見えるか、思い浮かべることができた。」

(以上引用終わり)

 

この辺の雰囲気作りというか、描写力があまりにもすごくて、とっても静かなのにそれでいて官能的で、すごくヤバい(語彙力)。

小川洋子的静寂は、ただ静かで穏やかなだけではない。その奥底には官能とか退廃の匂いがうっすらと漂っている。それは濃密ではないからこそ、強く薫る。

 

 

再び話を戻して、「わたし」の書く小説について。

小説の主人公が声を失っているのに対して、消滅が進んだ島において最後まで残ったのが声だというのも、あまりに示唆的。

 

閉じ込められたまま部屋に同化していき、身体感覚を失う小説の主人公。現実世界における消滅で、身体感覚を失っていく「わたし」。

 

R氏を匿っている隠し部屋は秘密警察にもバレていないので、消滅したものたちを保管しておくことができる。すなわち、体をどんどん失っていく「わたし」も、隠し部屋に保管される対象になる。

「大丈夫だよ。怖がることなんてないさ。僕は君を隠し部屋に大切に保存するよ」といってほとんど動けない「わたし」をベッドに横たえるR氏。保護する側とされる側の逆転。

 

肉体が全て消滅したことによって、不自由な身体感覚からも解き放たれる「わたし」。全てが消滅したからこそ、記憶狩りを恐れずに隠し部屋を出ることができたR氏。

 

失ったはずなのに、不自由から解放される感覚。

保護していた側が、保護される側になること。

いつまでも隠し部屋に残る、消滅した「わたし」の体と、部屋を出ていくR氏。

R氏はきっと、そのからだに触れて「わたし」のことを思い出し続ける。

幾重にも繋がる小説と現実、倒錯に重なる倒錯によって、現実世界と小説世界の輪郭が溶け合っていくよう。

 

消滅で全てを失ったはずなのに、R氏とも離ればなれになったのに、これが「悲しいお話」だと心のそこから思えないのはどうしてだろう。

 

 

 

一番に言いたかったのは上の通り。

次に触れておきたいのは、『密やかな結晶』に緊張感を与える要素について。

 

まずは、もちろん秘密警察。

秘密警察の絶対的な恐怖。

いつも助けてくれる頼もしいおじいさんが呼び出されたときの絶望感。

幸せな団らん中に呼び鈴がなった瞬間の緊張感。

全体を通して静かで穏やかな物語だからこそ、これらの緊張感がすごく刺激になる。こうして緩急があるからこそ、静かに流れていく物語に飽きることがない。

 

そして、おじいさんの死。

地震で怪我をしたおじいさんの体に起こる異変が、めちゃくちゃ不穏ですごく嫌な感じ。それが小川洋子的静寂のなかで、無視できない確かさでにじり寄ってくる。

秘密警察に対峙するときも、隠し部屋を作る時もたすけてくれる、すごく頼れるおじいさん。

家族を亡くした「わたし」を精神的にも支えてくれてたおじいさん。

真面目で、慎ましやかで、どことなくかわいらしいおじいさん。

だからこそ、おじいさんの死がすごく効く。めちゃくちゃ効く。

死の影が忍び寄る様子と同じく死の描写も淡々と静かで、深い悲しみと悼みに溢れている。

 

純文学とされるジャンルの物語は、エンタメ小説とされるものよりもストーリーの引きが強くない。

大袈裟な伏線が張り巡らされているわけではないし、どんどん返しがあるわけでもない。

人によっては「退屈」と言われてしまっても仕方ないと思う。(あくまで個人的な意見です)

 

その点、この『密やかな結晶』は、読み手の気持ちをずっと離さないようになっていたように思う。

秘密警察にもたらされる緊張感、おじいさんに忍び寄る死の予兆、どんどん致命的になる「消滅」。

カレンダーが消えて雪に閉ざされる島、島から小説が消えるシーン、時折挟まれる作中作。

読んでいて退屈だったり、意味がないと思うパートは全くなかった。

そして、クライマックスに至る足がかりとなる、作中作と現実世界が明確にリンクするシーン。

それは「わたし」が消滅に打ち勝った証であり、いつまでも消えることのない、小説が消滅したあとも残るR氏との繋がりである。

伏線の回収という意味でもカタルシスを得られる、本当に凄まじい展開。ここは読んでて鳥肌がたった。

 

 

 

はい。 

ながなが書いてきましたが、読み返してみるとえらく脈絡のないものになってしまったように思う。

でも、これが今の自分にできる、もっとも誠実な感想文、だとおもう。

本の解説とか書く人って、本当にみんなすごい人なんだなって、こんな文章を書いてみて初めて痛感するね。

この本はまた絶対読み返すから、その時にまた加筆修正することまででワンセンテンスとしつつ、今回はこの辺で。

 

一生モノの読書体験だったなぁ。

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

新年一発目の映画が、まさかのドキュメンタリーもの。普段はこんな類のやつは見ないけれど、連合赤軍に関しては非常に興味があったので。

 

この映画は、タイトルからわかる通り、あの連合赤軍あさま山荘事件を起こすに至るまで、山岳ベースのリンチ殺人も踏まえたドキュメンタリーもの。ただ、これは後々にも触れるけれど、完全に史実をなぞっているというわけではない様子。

 

本当は『突撃せよ!あさま山荘事件』の方を見ようかと思ったのだけど、どうやらこっちは警察側の目線に立ったもので、赤軍派の主義主張うんぬんよりも、悪役としての赤軍派みたいな構図らしいので、とりあえず『実録(以下略』から見て、必要なら『突撃せよ(以下略』を観ようと思った次第。

ちなみに、結局『突撃せよ(以下略』を観るほどではないと結論付けた模様。

 

 

忘れないために簡単なあらすじ説明を、とも思ったのだけど、正直連合赤軍の起こした事件をちゃんと追えてるわけではないし、彼らの主義主張について正確に理解できているわけでもないので割愛。もし未来の俺がこの文章を読んで気になったのなら、ウィキペディアでも読んでくれ。

 

 

(以下の感想は、あくまで『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を観た感想であり、連合赤軍という団体におけるものでも、連合赤軍がかつて起こしたとされる事件に対する感想でもない、ということだけ言い添えておきたい)

 

率直な感想を言えば、思っていたよりも全然薄っぺらかったんだな、という印象。

学生運動とか、世界同時革命、銃による殲滅戦とか、今の俺(今年で30歳)には全く想像することもできない程の熱量。

だからこそ、連合赤軍として本気で革命を志した彼らがどんなことを思い、何に命を懸けたのか、それが知りたかったというのがそもそもの動機だったわけだけど、ふたを開けてみたら山岳ベースにおけるリンチ事件なんて「総括」の名のもとに行われるただのリンチで、その動機が女同士の嫉妬みたいな感情が発端だったりするので、もはやどうしようもない。

大義の名のもとに行われるべき行為に私情が入り込むと、結局「総括」なんてものには何の意味もなくなる。それゆえの暴走、と言ってしまうのは簡単だけど、起こっている事件はあまりにも悲惨。遠山美枝子氏の最期が特に悲惨で、この辺が不快感のピーク。思ったよりも胸糞悪いやんけ!!!!

 

山岳ベース事件についてはそんな感じだったけれど、その後に起こったあさま山荘での籠城事件については、もうすこし同情的な見方できた気がする。特に人質となった女性への態度。これぞ革命戦士の在り方、と言えるのかもしれない。もちろんやっていることは全然褒められたことではないのだけど、筋を通して義を重んじるならば、それは革命のための闘争、と言える(言ってあげたくなる)かもしれない、と思った。

 

正直、共産主義であったり学生運動とか、その辺に関する知識が皆無で、その辺についても勉強になればと思ってこの映画を観たのだけど、圧倒的に知識不足だった。

彼らの主義思想の前提がわからないまま話がどんどん進んでいくから、結局は彼らが起こした事件に対しての感情しか湧いてこない。本当に勉強したいのなら、彼らの主義思想にまで思いを馳せたかったのなら、前提である知識を仕入れなければならなかった、というのが自己批判

(もっとも、彼らの主義思想がいくら立派なものであったとしても、彼らの起こした事件は到底許されないものであることに変わりはないのだけど)

 

でも、語弊を恐れずに言うならば、彼らの言う「総括」については、ちょっと共感しうる自分もいたりする。

あの映画の中で「総括」は、主に暴力の口実に使われていたように思う。

「全然総括ができていないじゃないか」

「真の革命戦士になるために総括は絶対に必要である」

みたいな演説が声高に繰り返されるわりに、誰も「総括」について具体的なことを述べることができない。だから、誰も「総括」の正解を知らない、故に当然「総括」は終わらない。

結局、「総括」とは何なのか、もちろん俺にだってわからないけれど、もしかしたらそれは「覚悟の形」を問われていたのではないかと思った。

銃による殲滅戦が非常に厳しい戦い(ぶっちゃけ勝ち目のない戦い)であることは、多分当時の連合赤軍のメンバー全員が心のどこかで思っていたことで、それでもその戦いに本気で挑むためには、並大抵の覚悟では務まらなかったはず。

そんな戦いに臨むために彼らに必要だったのは、崇高な思想。自らの思想が絶対に正しく、それをいかなる代償をもってしても叶えなければならないという使命感。

そして、戦い抜くために必要になるのが、いかなる障害を前にしてもくじけない、崇高な理想によって結ばれた何物にも代えがたい団結力。

人間である以上、きっと死ぬのは怖いし、おいしいものを食べたいし、セックスだってしたい。でもそんな欲求すらはねのけて、崇高な理想のためなら死ぬことをもいとわない。もともと勝ち目の薄い殲滅戦に臨むのであれば、そこまでの覚悟が必要だったのではないだろうか。そして、自分がその覚悟を持っているのに、隣で戦う仲間が、背中を預けるべき仲間がそこまでの覚悟を有していなかったら、それは由々しき問題にならないだろうか。

例えば彼らの最終目標がもっと現実的で、実現までのプロセスが明確に見えているものだったなら、「総括」にはそこに至る道筋を明確にするという、正解(意味)があったのかもしれない。

でも、彼らの挑んだ戦いは、現実的になればなるほど、勝ち目のない戦いだっただろう。それでも、崇高な理想を掲げている以上は絶対に避けては通れない戦い。

だからこそ、彼らはそれに挑むための「総括」に重きを置いたし、その「総括」は結果として現実に根差したものになりえず、実を結ぶことはなかった。大げさな言い方をすると、革命が目的というよりも、大義を貫いて生きる(あるいは死ぬ)ことが目的だったのかもしれない。

掲げる理想が崇高であるほど、自らを縛る鎖もまた強固なものになる。たとえその理想が実現不可能なものであっても、社会的に正しいものではなくても、心のどこかで自分が間違っているとわかっていても、自らを縛る鎖は断ち切れなかったりする、のだろうか。

連合赤軍の「総括」については極端な事例だけど、この考え方はもしかしたら夢を追いかける今の自分にもふんわり当てはめることができる、かもしれない。

そういう意味では「総括」「自己批判」の言葉は忘れずに覚えておきたいと思った。

 

最後に触れておきたいのは、あさま山荘事件の実行犯である加藤(弟)が最後に叫んだ問題のセリフ。

物語のクライマックス、一番盛り上がるところで感情的に叫ばれるその台詞は、その映画の総括ともいえる印象的なシーン。

でも、ウィキペディアによると、実際に事件を起こした加藤(兄)はその発言は実際のものではないと断言し、批判的な態度どころか明確に怒りを表明しているらしい。

実行犯の一人がそう言っているのだから、多分実際に問題のセリフは言っていないのだろう。

タイトルに「実録」とついているとはいえ、あくまでこれは映画作品でしかないのだから、実際の発言だけで物語を構成するのはいささか無理があるのも当然だろうけど、それであのセリフを言わせるのはちょっとまずかったんじゃないかと思った。

だって、物語の根幹を揺るがすセリフだぜ?めちゃめちゃ攻撃力あったぜ?それでも実際に自分の胸に響かなかったのは、それはあくまで映画製作者の意向で作られた台詞であり、実際にあの時代を生き抜いて、山岳ベースでの「総括」風景を肌で感じ、あさま山荘に立てこもった人間から生まれた言葉ではなかったから、なのかもしれない。

この辺のエピソードのおかげで、作品の作り手が取るべきスタンスについても考えさせられる映画になった。

めちゃくちゃ面白かった、とは言えないし、勉強になった、とも思わないけど、観て良かったとは心から思う。

人に薦めるかどうかを問われると、多分おすすめはしないとのだけど。

 

最後の最後に。

連合赤軍の会議シーンで聴衆が声高に「異議なし!!!」と吠えるシーンが多々あるのだけど、あれはぜひとも日常会話で使っていきたい。

ちょっとネタにしてるニュアンスがあるのだろうけど、あの勢いというかテンション、結構好きだったな。

『雪沼とその周辺』

唐突に、今年からは読んだ本や映画の感想をブログ的なものに綴っていこうと思いました。もちろん自分用、ネタバレなどは基本的に考慮せず、好き勝手に、独断と偏見ばっかりで綴りたいと思います。(誰にも教えていないブログだけど、記事は公開状態なので一応の前置き。)

 

新年の一発目になる小説は堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』


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以下、文庫裏のあらすじ引用。

 

小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。

廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに、最後のゲームをプレゼントしようと思い立つ店主を描く佳作「スタンス・ドット」をはじめ、山あいの寂れた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映し出す川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説。

 

以上、引用終わり。

 

 

こうしてあらすじを丸引用(ちゃんと手打ちで引用している)してみて思うのは、文庫裏のあらすじって本当にうまくストーリーを説明しちゃってるんだよな。

特に、今作みたいにストーリーで読ませる作品ではなく、文章そのものを楽しむような作品に関しては、本当にこれくらい簡潔な文章で全部説明できちゃうんだもの。

ただ、今作は連作短編だったので、備忘録的な意味で各話のだいたいのあらすじ、簡単な感想も書き残しておこうと思う。

 

「スタンス・ドット」

表題作的な短編。今日で廃業してしまうボウリング場のオーナーが、トイレを借りに来ただけのカップルに最後のゲームをプレゼントする。

カップルがゲームに興じている間に思い出すのは、自らの人生について。

勤めていた中古車販売業を辞めて、ボーリング場を開いたこと。奥さんがまだ元気なころは軽食スペースが繁盛していたこと、元プロボウラーのハイオクさんとの出会い、仕事の視察先(アメリカ)で出会ったハイオクさんが投げた時の音にそっくりなボウリングの機械、それらを一式取り寄せてボウリング場を開いたこと、耳が悪くなって肝心な音が聞こえなくなってしまったこと。

カップルのゲームは大詰め。その最後のレーンを、主人公が投げる。奥さんが亡くなってからは一度も投げていない主人公。ハイオクさんと同じ音は最後まで鳴らせなかった主人公。補聴器を外し、いつもと同じスタンス・ドットから、最後の一球を放る。

 

描写がすごく丁寧で、時折めちゃくちゃ長い一文があったりするのに、不思議とすっと入り込んでくる。なんかいい意味でめちゃくちゃ気持ち悪い文章だ、というのが第一印象。

決して華やかとは言えない、でもつつましやかに営まれている現在の生活の描写から、そこに至るまでの過去が回想のような形式で語られるというこの小説全体を貫いている流れも、ここで提示される。

明確なオチが用意されているわけではなく、物語を放り出されたように感じたところも含めて、あんまり合わないんじゃないかと思ったのが正直なところ。

 

 

イラクサの庭」

雪沼周辺で料理教室を営んでいた小留知先生が亡くなる。今際の際に残した言葉が聞き取れなかったことを悔やんでいる。(おそらく「コリザ」と言っていた?)

語られる小留知先生との思い出。なぜ雪沼に来たのか、どんな人生を歩んできたのかは誰も知らない。教えてもらったいろいろな料理の中で、イラクサのスープだけは好きになれなかった主人公。それがいつまでも引っかかっているから、小留知先生の跡を継いで料理教室を開く気にはなれない。

先生が好きだった外国の小説に描かれる、遠方に出た息子を連れ戻す母の強さ。戦後の混乱期、知人の子供の様子を見に行った時に、その子からもらった氷砂糖。その話をしたときに浮かべた涙。先生は、あの時その子供を小説の中の母親のように連れ帰りたかったのではないか。

「コリザ」とは、氷砂糖のことだったのか。そう言おうとしたときには、雨が上がっている。

 

一話目と比べて、わかりやすいドラマの要素が強かったので、とても読みやすかった。雪沼という場所に対する理解度も徐々に増していく感じ、連作短編の強みかもしれない。

イラクサのスープが好きになれないから料理教室を継げないという罪悪感みたいな感情とか、こういった類の丁寧な小説でしか扱えない気がする。

氷砂糖をくれた子供は、本当は先生の子供だったのだろうか。真実はわからずじまいだったけれど、いやだからこそ、謎に包まれた一人の女性の生涯に思いを馳せざるを得ない。

最後に雨が止むところも、わかりやすく希望につなげて良い。

 

 

 

河岸段丘

製函工場を営む主人公。体が傾いてきたように感じる。

車にひかれて死んだ飼い犬、立地が悪い河岸段丘に工場を建てたこと、古い機械を使い、昔ながらの方法で仕事をすること、古い機械としっかり向き合って、丁寧に修理すること。衰えていく自分と友達と。

 

書くのがめんどうになってきてどんどん適当になっているけれど、この話は前述の二つよりも良かった。ずっと大切に使っている昔ながらの機械、それを修理する旧友の考え方、この小説全体を象徴するシーンな気がする。

文章とか描かれている環境とか境遇があまりにも自分と遠いから共感しにくいとか思っていた節があったけれど、この話でぐっと気持ちが近寄った。

 

送り火

旅行先でランプばかり買ってくる主人公。書道教室を営んでいる夫。

自宅の上階部分を賃貸に出したときに、書道教室を開きたいと申し出てきたのが馴れ初め。主人公とその母親も協力して、書道教室はそこそこ繁盛する。

一緒に住んでいた母が亡くなり、二人は結婚する。子供にも恵まれて幸せだったけれど、自転車が好きだった息子は台風の日に流されて死んでしまう。今年は十三回忌。

最新式の自転車ライトがあったら、流されていく息子は誰かに気付いてもらえたかもしれない。たくさん買ってきたランプの一つを今からでも持たせてやりたい、葬儀の時にそんなことを考えたことを思い出して、ランプに火を灯そうと夫に提案するところで物語は終わる。

 

部屋の賃貸から始まる恋愛、最愛の子供の死など、要素としてはかなり詰まっているのに、前出の作品同様ずっと静かで、穏やか。やろうと思えばいくらでもドラマティックにできるし、逆に言えばこんなに要素もりもりなのに穏やかというのは設定をうまく生かし切れていないともいえるのかもしれないけれど、本作はこれでいい、これが良いと思えるような短編。

傍から見たら悲惨だったり、ドラマティックに見える人生であっても、それを自らの物語として生きていかなければならない人にとっては毎日続く生活の延長上であるわけで、それをしっかりと乗り越えていけば全部過去に変わるわけであって、現在に至るまで残るのは思い出とか、関係性を盛り込んだゆるぎない営みなわけで。

個人的には告白のシーンがとても好きだった。主人公の絹代さんへ思いを伝えるために、書初めで「絹への道」(シルクロード)と書く夫。ユーモアにあふれてて、なんかすげえ微笑ましくて、とてもよかった。

こうして思ったことをそのまま綴っていると、思い入れの量がわかりやすくでるなぁ。

 

 

「レンガを積む」

古いスピーカーの下にレンガを積む主人公。

東京のレコード店でアルバイトをしていて、客を観察し、好みのレコードを進めるのが上手だった主人公。その能力を買われて社員になり、支店を任されるまでになる。

レコードからCDに切り替わる頃、仕事の不調と母親の体調を考えて、東京から雪沼に拠点を移し、自分の店を持つようになる。

商店街の隣の店舗との交流(昔からの友達同士みたいな関係への憧れ)、身長が低いことのコンプレックスと、それでも自分の強みを生かせる音楽へのこだわり。

 

 

音楽の機材的な知識がないゆえに、ちょっと入ってきにくかった。

ただ、音楽に対してこだわりのある感じとか、都会を捨ててあえて雪沼に戻ってきたところとか、共感ポイントは多い。こんな感じで商売して生きていけたら理想だなぁ。

 

 

「ピラニア」

料理店を営む主人公。料理はあんまり上手ではなくて、見習い時代から出前に出されていたけれど、最終的に一人だけその店に残った故に、お店の跡を継ぐことになる。今だって料理を極めようという気はなく、適度に、それでいて真面目に仕事に取り組んでいる。

病院食に飽きた入院患者にこっそり出前するのを頼まれる主人公、それを斡旋していた女性と出会い、結婚。自分の料理はおいしくないとずっと思っていたけれど、実は代替わりしてからおいしくなったと評判だったこと、お店の地下に設けた熱帯魚スペースの大きく育ったピラニア、魚の飼育も、料理も、何が良いのかなんて本当はわからないと独り言ちる。

 

 

冒頭のおっさんのげっぷ描写が結構気持ち悪くて萎えちゃったけど、内容はすごく良かった。

料理の腕前を突き詰めてきたわけではないけど、まじめに丁寧に積み重ねを続けたことで、最終的には先代よりも評判が良くなっている。

何か特別なドラマなんてなくていい、つつましく、勤勉で、それなりにしっかりと人生を歩んできた人の半生には、それだけで染み入るものがある、気がする。もちろん、ドラマにならない人生を物語にまで昇華させるためには、それに見合った文体が必要になるのだろうけど。

 

 

 

「緩斜面」

勤めていた会社が倒産して困っている主人公を防災設備の会社に誘ってくれた友人。

ほとんど冗談みたいなノリで人生を左右されることに多少の抵抗を覚えつつもその話に乗り、今でもその会社に勤めている。

その友人が急死した今も、墓参りの度に家に寄り、彼の家族と話す。その折に、学生時代に二人で作って飛ばした凧が出てくる。凧を上げたことがないという彼の息子と、今度凧を飛ばす約束をする。

 

正直、読んでから少し時間が経っていることもあって、あんまり覚えていないんですよな。

河岸段丘」「送り火」「レンガを積む」「ピラニア」と個人的に印象深い話が続いた故に、ちょっと薄く感じたのかもしれない。

失業時に読んでいたのがアガサクリスティの『ABC殺人事件』だったことと、出火原因を問わずに使えるオールラウンドな消火器を粉末ABC消火器と呼ぶこと。会社倒産の渦中(火中)にいる自分に消火器、と言ったちょっとダジャレじみた理由で転職を進める友人に怒るシーンがあるけれど、人生なんてたぶんそんな感じの適当さで決めた方がうまくいくことだってあるし、個人的にはそういう投げやりさ、結構嫌いじゃない。

学生時代に二人で何をするでもなくだらだら酒飲んでいるシーンも印象的。やっぱり、印象派薄くても思いを馳せる余地はいくらでもあるなぁ、とこの感想を綴りながら思う。

 

 

以上、やってみるとめちゃくちゃ長くなってしまった。原稿用紙十枚分以上書いてるじゃん。

総括としては、本当にあらすじに記されている通りで、つつましやかに、昔のものを大切にする人たちが自らの半生を振り返るようなお話。ドラマティックな恋愛も、叙述トリックも、連続殺人犯も、異世界転生もない、とーっても地味なお話。さらに言えば、結末をあえて締めずに投げっぱなしにする話も多いので、正直ストーリーとして楽しむことなんてできないのかもしれない。

これに関しては、伊坂幸太郎氏が帯で言及していることに尽きると思う。(以下引用)

 

「堀江さんの本を読んでいると、音楽を聴いている気持ちになる。頭で理解する以上に、体の隅々まで言葉が巡り、気持ちが平らかになっていく。小説の愉しみとはストーリーを楽しむことだけではない、決してそうじゃない、と教えてくれる。」(以上、引用終わり)

(個人的には、めちゃくちゃストーリーテラー伊坂幸太郎氏がこんなことを言っているのがまた面白いと思うのだけど、というのはまた別の話)

 

先が気になる、とても怖い、あるいは泣ける、とか。これらは小説を読み進める原動力のうちの大きな一つだとおもう。

その観点で言えば、『雪沼とその周辺』について、面白くなかった、退屈だったと言ってしまう人も多いかもしれない。

でも、普段からドラマティックのかけらもない、つまらない仕事やままならないことに埋められ均され埋没してしまっている人生を送っている自分自身が一番わかっているのではないか。人生なんてドラマティックでもないし、面白くないし、退屈なのだと。

だからこそ読書にドラマティックを求めるの気持ちもわかる。俺だってドラマティックな奴は好きだし。

でも、個人的にはこの『雪沼とその周辺』を読んで平凡で退屈な人生に思いを馳せる瞬間にこそ、小説を読む醍醐味を感じてしまうのも確かなのであって。柴崎友香さんの『百年と一日』と同じ種類の感動。だったのかもしれない。

 

退屈でつまらない、物語が発生していない、何が言いたいのかわからない、確かに外側から見たら、そんな風に感じるかもしれない。

でも、自分で顧みれば、他者様に語るようなものではなくても、それなりに山があって谷があって、それでいてドラマティックなこともいっぱいあったのが人生というものなんじゃないだろうか。

 

おあとがよろしいようで。

 

 

こんな夜更けに『夜に駆ける』

 

YOASOBIさんの『夜に駆ける』という曲。

めちゃくちゃ流行ってますね。基本的には流行りモノに乗っかりたくない、あくまでサブなカルチャーを愛することをモットーとしている(サブなカルチャーを愛している自分を愛しているだけな可能性が非常に高い)な僕ですが、

「どうせ否定するなら、ちゃんと聴いてから叩かなければ!」と謎の使命感から当該楽曲を聴き、今となってはドが付くほどハマってしまいました。めちゃくちゃいいなこの曲。

 

YOASOBIというアーティスト名と、『夜に駆ける』という曲名の親和性。

まるで夜に駆けていくこと自体が夜遊びである、と言いたげな茶目っ気というか、おしゃれ感というか。

加えて、楽曲の疾走感というか、爽快感。

決して派手に明るかったり、底抜けに軽快なわけではなく、あくまで夜のしっとり感みたいなのを残しながら、それに不和を生じさせない爽やかさ。聴いているだけで夜に駆けているような気分になれる、そんな気がしますよね!?(書いている本人も何を言っているかわかっていないので大丈夫です。)

 

ただ、歌詞に注目してみると、実は『夜に駆ける』ってそういう意味だったんだ、って気付かされます。そして、そこに気付いてしまうと、先述の疾走感、爽快感が意味するものが少し変わってくる。そこまで含めて、この楽曲めちゃくちゃいいと思うんですよ。

 

 

 

 

というのは、表面上の感想。

今回わざわざ文字に起こしているのは、特に自分に刺さった歌詞について言葉にしてみたかったからです。

 

それが「溶ける」という歌詞。

そもそも歌いだしから❝沈むように、溶けていくように❞であるように、この曲内では「溶ける」という言葉がちょいちょい登場します。

この「溶ける」が個人的にとても引っかかって、その引っ掛かりは「不可解だなぁ」という感じではなく、「なんでこんなにしっくりくるんだ!?」みたいな感じだったんです。

 

だから真面目に考えてみたんですけど、「溶ける」って、「対象物が外的な要因によってそのまま消えてなくなる」みたいなイメージが強いのかもしれない。

 

 

わかりやすいところで言えば、

 

❝忘れてしまいたくて閉じ込めた日々も 抱きしめた温もりで溶かすから❞

 

のところ。

 

 

忘れてしまいたいと思うことなんてきっと誰にでもあるけれど、忘れたいことだけコロッと忘れられる人間なんて、多分いない。むしろ、忘れたいことほど嫌な記憶として、傷跡みたいにずっと残ったりする。

そんな消えない傷跡との向き合い方の一つが、閉じ込めてしまうこと。

その傷を見ないように、考えないように、閉じ込める。忘れることができないから、閉じ込めるしかない。そんな風に心を守る人は、多分たくさんいる。

 

もちろん、傷は治った方が良い。専門家の力を借りたり、正反対の記憶をたくさん蓄積したり、時間に身をゆだねたり、そうやって閉じ込めたものといつしか向き合えるようになるのがベスト。

ただ、音楽はやっぱり誰かを元気にしたい、とか、勇気づけたい、みたいな目的に沿ったものが多いので、方向性的にはこっちに寄りがちな気がする。

涙の数だけ強くなれるよ、なんて聞こえはいいけど、結局それは強くなることを強要してない?とかひねくれた僕は思ってしまうんです。

 

でも『夜に駆ける』では、忘れてしまいたくて閉じ込めた日々を、❝抱きしめた温もりで溶かすから❞と歌うんですよね。

忘れたくて閉じ込めた日々を忘れさせるのではなく、こじ開けるのでもなく、とじこめたまま溶かしちゃう。

忘れられないことを「忘れさせてやんよ」っていうのは無責任極まりないし、二度と対面したくないから閉じ込めた日々を思い出させるようなことも論外。じゃあ相手のためにできることは?

もちろん、相手の閉じ込めた日々を自分なら溶かせる、なんて思い上がりも良くないとは思う。でも、全部踏まえて相手のためにできることって、結局抱きしめることくらいなんじゃないかと思うんです。

そして、❝抱きしめた温もりで溶かす❞という歌詞は、裏を返せば傷跡を治すことも忘れることも、向き合うこともできない相手のことを無条件に肯定する包容力があるように思えるんです。

「溶ける」という言葉からここまでの優しさが溶けだしているからこそ、相手に伸ばし続けた手の温もりが真に迫ってくる、のかもしれない。

だから二人の結末が『夜に駆ける』ことだったとしても、悲しいことだとは思えないんですよね。

 

 

 

はい、もちろん全て個人の意見であり、個人的見解であり、眠れぬ夜の暇つぶしでしかありません。

もしかしたらYOASOBIさんはこんなこと全く考えていないかもしれないし、全然的が外れているかもしれない。

それでも、僕がここまで考えたのは事実だし、僕がこの曲をどう聴こうと自由でしょう。誰も見ていないブログくらい、好き勝手にやらせてくれ。

 

こんな感じで歌詞について思いをはせるの、楽しいかも。

深淵に一方的に覗かれている感覚

戯れにこのブログのURLをTwitterのプロフィールに貼り付けていた時期がありました。

そして、今日Twitterで「ブログ更新しました」なんて誰も得をしない情報を書きつけてみたら、なんと15件もブログにアクセスが!!!

誰かに直接教えたわけでもないこんなクソブログに15人もの人がくるなんて!

(とはいえ、全然更新してないしどこかにリンクが繋がっているとも思えないこのブログに月間100人以上来たこともあるので、一体どうなっているのだろう)

 

もちろん誰でも見れるように公開してるわけだし、公開しても恥ずかしくないことだけ書いているつもりだけど(ただし、そもそも俺自身が恥ずかしい人間である可能性は考慮しないものとする)、15人もの人が見ているとなると、なんだか身が引き締まるというか、肛門が引き締まるというか。

 

『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』

かのニーチェの、あまりにも有名な言葉。

 

とはいえ、このブログに関して言えば、何人に見られているかまでしかわからないので、覗き込んでいるあなたが誰なのか、こっち側はわかりません。

 

見ている人のことを意識すると急に言葉が出なくなっちゃいそうだけど、誰かわからない人に見られている状況は適度な緊張感があって良い気がする。

深淵に一方的に覗かれるのも悪くない。

 

二階堂奥歯さんだって、きっと自分のブログが本になって、たくさんの人に読まれるなんて想像もしていなかったに違いない。だからこそ、自分の趣味趣向性癖全開な文章を書いていたのではないだろうか。

そして、だからこそあの人のブログは楽しいんだと思う。

あんな風に、なんか楽しいことを書けたらいいなと思う。

 

無意味の肯定

毎日更新(とまではいかなくても、ほぼ毎日更新する)、と息巻いていたのに、2日目で挫折しかかってる。

 

今日はゲーム(Bloodborne)して、文章を書いて、にーちゃんの家に遊びに行って、梨が美味しくて。

 

なんて本当に日記みたいなことを書いてもどうしようもない。小学生の夏休みの宿題じゃあるめぇし。

でも、毎日毎日そんなにごっそり心が動くわけでもない。

 

だから、別に心が動かない日は書かなくてもいいことにする。

日記の空白が、日々の忙しさや無意味な日々の堆積をあらわしてくれるなら、それはそれで後々見返して面白そうだし。

 

 

一時期、無意味な時間を過ごすに対して非常に強い嫌悪感を抱いている時期があった。

そういえば、無意味な時間をなくす意味を込めて、このブログを立ち上げた気もする。

 

でも本当に無駄で無意味なものを排斥するならば、真っ先に消されるのは、たぶん俺自身だもんな。

無駄とか無意味を肯定してからでないと見えてこないものとか、そういったところに求めてやまないものが隠れてる、気がしないでもない、よね。