ぼくが考えたこと。

ぼく(28才、フリーター)が一生懸命考えたことについて。極個人的。

見知った気まずさ、あるいは女の子に救われた記憶、いつかの『街の上で』

4月20日のことなんですが、今泉力哉監督の『街の上で』という映画を観てきましたので、その感想文です。

今回は、映画の感想以外の文章も長め。

 

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『ある夏の日の下北沢なんてどうだろう』

この映画を知ったきっかけは、大好きな作家である燃え殻氏がパンフレットに文章を寄せていたこと。しかも、その文章がすごくいいらしい。

タイトルは、『ある夏の日の下北沢なんてどうだろう』。

燃え殻氏の文章で、このタイトル。それだけでもう100%最高だもの。

それなら、燃え殻氏がこんなタイトルの文章を寄せる映画だって最高に決まってるじゃないか。パンフレットの表紙の写真だって、なんだかとってもオシャレなかんじだし。

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自慢じゃないけど、私はほとんど映画を観に行かない(本当に自慢にならない)。

映画館の大きなスクリーンや、体表で感じるサウンドの感じは好きだけど、いかんせん大勢の他人が周囲に居るのが気に食わない。

嫌でも耳に入る無駄話とか、的を得ていない冗長な感想や、無責任に散らかされたポップコーンの食べかすとか。

そういうのを目にしてテンションが下がってしまうくらいなら、環境が整った自宅で配信なりDVDで観たい派なので、映画館に行くのは「あらゆるリスクを負ってでも大画面で観た方が良い作品」に限っている。

具体例を挙げるなら、『シン・ゴジラ』『キングコング 髑髏島の巨神』『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』などである。(とてもわかりやすいラインナップ)

 

そんなラインナップとは程遠い、絶対に家で静かに観た方が良い『街の上で』をわざわざ劇場まで足を運んで観たのは、単純に劇場に行かないとパンフレットが手に入らないであろうから。

いや、もっと正直に言うと、この映画がなんだかオシャレだったから。

オシャレな映画を観に行くオシャレな自分を演出してみたかったんすよ。

オシャレな映画を観て、一人で余韻に浸りながらスタバとかに行ってみたかったんすよ。そういうのに無縁な人間だからこそ、一回くらいやってみたかったんすよ。

たぶん、最近バイトがめちゃくちゃ忙しくて慌ただしい日常だったから、普段とは違う感じの自分を演出したかった。もしくは、贅沢な時間の使い方をしたかっただけ、なのだと思う。その方法論が、普段は観ないようなオシャレ映画を観ようだった。

我ながら、すげえダサい理由。

 

 

結論から言えば、観に行ってよかった。めちゃくちゃ良かった。

劇場で観て良かったと思える明確な理由があったし、俗っぽい目的も余裕で達成できたし、余韻に浸るどころかテンションで慌ただしいバイトを辞めることにしたっていうオマケつき。

そういう意味では、人生を変えることになった映画、なのかもしれない。 

 

 

 

映画になりえない、平凡な物語

で、ようやく『街の上で』の内容の話。

 

下北沢の古着屋で働く青は、彼女に浮気されたうえにこっぴどく振られて、それでも未だに引きずっている。

働いている古着屋で暇な時間に本を読んだり、ふらっとライブハウスに寄ったり、行きつけの飲み屋で飲んだり、元カノに女々しく連絡したり。基本一人で行動するけれど、誰かと一緒に過ごすのが嫌いなわけでもない。口数が多いわけではないけど、少ないわけでもない。生活のすべてが下北沢で完結するから、下北沢からほとんど出ることもない。

そんな主人公のもとに、突然自主映画を撮っている女の子が現れる。そして、わたしの映画に出てくれませんか、なんて言い出す。

 

と、まぁ、そんな感じの話。

主人公の元カノ、古本屋の店員、自主映画を撮ってる監督、その映画の衣装係などの魅力的な女の子達と、どことなく無気力でふやっとしている主人公の、なんやかんや。

公式さんのキャッチコピーは、「下北沢を舞台に紡ぐ、古着屋と古本屋と自主映画と恋人と友達についての物語」

恋愛?コメディー?群像劇?どれもあっているような、ちょっと違うような。

 

ぶっちゃけてしまうと、今までの個人的でちっぽけな映画視聴歴で言えば、こんな起伏の少ない、何とも言えないストーリーのものが映画たりえるのか、と思っちゃうほど。

アクションなし、大恋愛なし、大それたヒューマンドラマもなし。 主人公が人間的な成長を遂げるわけでもないし、旅に出るわけでもない。人によっては、すごく退屈だと思っちゃうかもしれない、そんな映画。

でも、だからこそ、この物語は映画である意味があったし、「この映画は最高だ!!!」と、声に出して言いたい。

こうして胸のうちにわいてくる感情をできるだけ詳細に、丁寧に、忠実に、誠実に文字にしたくて、こうしてキーボードをたたいている。

ちなみに、以下ネタバレとか考慮しません。(とは言いつつも致命的なものは出していないはず。そして、この映画はネタバレとかあんまり関係ない気もする。)

 

 

極・個人的な感想とか

・ずっと気まずい

まず、冒頭のシーンからすごく気まずい。

というか、この映画のことを思い出そうとしてみても、気まずいシーンしか出てこないくらいに気まずい。

 

たとえば、古本屋の田辺さんに過去にやってた音楽のことを尋ねられるシーン。

燃え殻氏も寄稿した文章で触れていたけど、人間は誰しも一度は作詞作曲をしてしまうのかもしれない。でもほとんどの場合それはいい感じに実を結ぶことなく、あまりいい思い出にはならなかったりする。

そのことを深掘りされること自体が気まずいのに、意を決して(それでもごにょごにょと)放った言葉はタイミングが悪くて相手の耳に届かなかったりする。

昔やってた音楽のことを尋ねられる感じ、意を決して黒歴史を明かす感じ、それを聞き返された時のあの感じ。ああ、知ってるやつだ、このぞわぞわ。

 

他にも、

・行きつけのバーのマスターに元カノに連絡するのを辞めるよう諭されるシーン(バーのマスターは元カノと連絡とってんの?感)

・自主映画の控室で、自分が置いたリュックのそばに別の人が座って、そのリュックをどかす瞬間のあの感じ。(あ、すみません、みたいな感じのやつ)

・自主映画の撮影時、ガチガチの青と、それを見た制作陣の「ああだめだこりゃ」感。そのあとの自分の演技シーンを使う使わないの会話とか、差し出された手を握手と勘違いしちゃうやつ。そして、打ち上げ飲み会のシーン(なんで打ち上げに参加するんや!!!!!)

などなど。

 

言い出したらキリがないくらい、ずっと気まずい。

しかも、それは自分のよく知っている、どこかで体感したことのあるやつばっかり。

作詞作曲をしたことなくても、自主映画に出たことがなくても、全部知ってるんだよこの気まずさ。

あんまり思い出したくない、あの瞬間、あの空気。それらが完全に再現されていて、何ならギュッと凝縮されている。あまりの気まずさに笑っちゃうような、見ていられなくて目をそむけたくなるような、お尻がムズムズしてくるような、あの感じ。

 

・あの夜の「やれたかも」感

再現度が高いのは、気まずい瞬間だけじゃない。男なら誰だってそわそわしちゃう、あの「やれたかも」の感じ。

一人で入ったライブハウスで、涙を流しながら曲を聴いているおひとりさまの美人。

なんだか気になる彼女は、ライブ後に煙草持ってませんか?なんて尋ねてくる。

正直、この時点でかなりやばい。

音楽の趣味が合っているだけで主義嗜好哲学とか全部合っているような気がしてくるし、音楽で涙を流せる感受性って素敵だし、一人でライブハウスに来る行動力からみても自分と似通っている感じがして良い。そして、相手から声をかけてくるってことは、相手だって同じようなシンパシーを自分に感じているのではないか?

そんなことが頭を駆け巡って、ドキドキというか、そわそわというか。

 

でも、そういう時に限って煙草を持っていない主人公。(なんでだよ!持っとけよ!)

それで終わりかと思いきや、わざわざ別の人に声をかけて煙草を二本もらってくる美女。

正直、個人的にはこのシーンがハイライトじゃないかと思うくらいドキドキした。あんなの、絶対好きになっちゃうじゃん。

すぐ隣で、煙草を吸う彼女。

声をかけるか否かの葛藤。そして悶々としている間に連れを見つけてどこかに行っちゃうところまで、全部あるある。(葛藤の末に声をかけられないところとか、もう共感の嵐)

その時の煙草をなんとなくいつまでも捨てられないところまで含めて、めちゃくちゃわかる。

 

気まずい自主映画の打ち上げ飲み会の後、イハの家に上がり込むところも最高。

そもそも、あんな寄る辺のない飲み会で隣に来てくれる時点でやばいし、そのあと家に誘われる感じもやばい。

アルコールの入った男女が、深夜に女の子家で二人っきり。これ、絶対いけるやつやん!!!

でも、結局お互いの恋愛話なんかを披露する流れになって、結構突っ込んだ話までしちゃって、めちゃくちゃ盛り上がったりする。それでもお互いに「そういう雰囲気」は頭の片隅でちゃんと認識してて、男なんて特にそれでそわそわしちゃいながらも、結局何もしない感じ。でも泊っていくか尋ねられたら泊まっちゃう感じ。

ああ、わかるわかる、知ってるやつだぞこれも。

ついでと言ってはなんだけど、イハに話したエピソードの一つ、ラーメン屋で風俗嬢と再会して微笑んでもらうやつ、あれも最高でしたね。

 

 

結局、「再現度が高い」ということに尽きるのだと思う。

下北沢の街の空気、ざわつく気まずさ、下心とそわそわ。

下北沢に行ったことないし、自主映画に出たこともないし、ライブハウスで煙草持ってるかと尋ねられたことだってないけれど、その瞬間の心のさざ波は、全部知ってるやつばっかり。

だからめちゃくちゃ心が揺れる。思わず笑っちゃうし、青と同じようにそわそわしちゃうし、こんなにも心に残る。

巨大怪獣なんて出てこなくても、ヒロインが難病じゃなくても、見知った日常における心の機微が丁寧に、そして慈しみをもって描かれているのなら、それは物語になりえるし、映画たりうるのかもしれない。

 

 

 ・女の子に救われた記憶

物語を彩る、4人の女の子。(個人的にはライブハウスの煙草の人と、ラーメン屋の風俗嬢も加えて6人にしたいのだけど)

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左から、

自主映画を撮っている高橋さん(作品論になると喧嘩するのも厭わない、芯のある感じが良い。)

古本屋の田辺さん(個人的になんかすげえエロい雰囲気を感じる。映画撮影前の練習に付き合ってくれる感じとかめっちゃ良い。)

元カノの雪(めっちゃ美人。わりと奔放だけど、最後のあのセリフだけで個人的には帳消し。最高。)

衣装係のイハ(関西弁のせいか、親近感がすごい。アウェーな飲み会の時に隣に来てくれただけでもう最高。夜中の恋バナのところも最高。とにかく最高。最高オブ最高。)

 

こうしてメイン女の子が4人もいるけれど、主人公を取り合ったりするわけではないし、主人公もどれにしようか悩んだりするわけではない。

過度に物語化されていないからこそ、等身大な女の子と等身大な青の交流が好ましい。

 

個人的に思ったのは、女の子に救われること、について。

 

まず、古本屋の田辺さん。

自主映画出演前に練習に付き合ってくれるだけで、青はめちゃくちゃ救われたと思う。緊張とか不安とか、そういうのをそばで共有してくれるだけでも全然ちがう。そして、これはきっと男友達とかじゃダメなやつ。

物語の終盤、完成した自主映画を観に行く田辺さん。そして、青のシーンをカットしたことについて監督である高橋さんに詰め寄る田辺さん。

もちろん、普通に考えたらあんな棒演技使うわけがないのだけど、青が頑張って練習していたことを知っている田辺さんからすれば、確かに存在の否定と感じるかもしれない。

自分に置き換えてみて、誰かが自分のシーンがカットされていることについて怒ってくれたとしたら。多分めっちゃ嬉しいと思う。

 

あるいは、イハ。

青がなぜか参加した、自主映画撮影の打ち上げ飲み会。話す人なんているはずないし、何なら遠くから自分の悪口が聞こえてくる。

そんな飲み会で、隣に来てくれたこと。話しかけてくれたこと。寄る辺のない飲み会に参加した経験のある人なら、もれなく刺さるんじゃないだろうか。

家に呼んでくれたこと、いろいろな話を聞いてくれたこと、いろいろなことを話してくれたこと。そのどれをとっても、青の存在の肯定につながる。うまく演技ができなかったけれど、出演シーンはカットされてしまったけれど、イハと笑い合ったあの夜があったから、自主映画に参加して良かったと思える、かもしれない。

 

その他の女の子達も、きっとそう。

わたしの映画に出てくれませんか、と言ってくれた高橋さん。

恋人として、そばに居てくれる(居てくれた)雪。

うずくまっているときに手を差し伸べることだけが救いじゃない。必要としてくれたこと、そばに居てくれたこと、心を通わせた夜。その一つ一つが、きっと救いになる。

 

少なくとも、私にとってはそうだった。

大学生の時、バイト終わりにさっちゃんがくれた缶コーヒーとか。

高校生の時、遅刻して学校に向かっている最中に偶然出会ったクラスメイトの田川さん(もちろん彼女も遅刻している)と「どうせもう遅刻してるんだから、急いだって一緒やん?」とコンビニに寄り道したこととか。

青と女の子達の交流を見ていると、なぜかそんなことを思い出した。

だからなんだ、って話なんだけど、そういう記憶って個人的にすごく大切なもので、それを思い出させてくれたってだけでこの映画を観たことには意味があったとすら思う。

 

 

物語を彩る、街の人

魅力的なのは、女の子だけじゃない。

下北沢の街に生きる、青の生活に少しずつ絡んでくる人達も、みんな魅力的だった。

好きな男が他の女の子に告白するための洋服を選んであげる女の子。(応援したくないけど、思わず応援の言葉が出ちゃうかんじ、わかるなぁ。そして、この子もめちゃくちゃかわいい。)

雪との関係性がなんだか怪しいバーのマスター。(個人的には、こいつ雪と一回くらいなんかあったんじゃないかって思ってる。)

いつも行きつけのバーに居る胡散臭いおっさん。(自主映画に出てほしいって要するにそれ告白だからね!と豪語していたけど、その理論はめちゃくちゃわかる)

そして、複雑すぎる恋愛をしている警察官。(癖が強すぎるけど、そんな恋をしてるのなら誰かに話したくなる気持ちはわかる。そして、誰にも言わないでねって言っちゃう気持ちもわかる。というか、あんな話聞いちゃったらその後が気になって仕方なくなっちゃう。)

 

警察官に至っては、序盤に笑わせてくれるだけじゃなくて、最後は雪の背中を少しだけ押す(その少しがすごく重要だったりする)役割まで担っちゃう。

そのシーンではもちろん吹き出してしまうのだけど、知らない誰かのなんでもない一言(カフェで隣の席に座っているカップルの会話とか、居酒屋で隣り合ったサラリーマンの愚痴とか)を耳にして、自分でも気づかないうちに何か影響を受けたこともあるかもしれない、なんて考えてしまって、なんだか神妙な気持ちになったりもする。 

 

脇役、と言ってしまえばそれまでのキャラクターも、下北沢の街で生き生きと動いている。

脇役と言ってしまうには癖が強すぎる気もするけれど、それも下北沢という街なら納得できるような気がしてくる。(行ったことないけれど、きっと下北沢にはロン毛の男性がたくさん居るのだろう)

そして、誰かとの他愛ないやり取りが、何かの引き金になったりする。たくさんの人が生きている、関わり合っている、街の上で。

 

 

人が生きている、街が生きている、だから物語が動く。

この文章のずいぶん最初の方で、こんなに物語に起伏が少ないのに映画になりえるのか、みたいなことを言っていた気がするのだけど、実は映画が映画であるためには大きな物語なんて必要がないのかもしれない。

 

人が生きていて、街が生きている。それだけで物語は動き出す。生きてさえいれば、それは物語になる。

 

もしかしたら、今自分が生きているこの街だって、この退屈な生活だって、今泉監督のレンズを通すだけで物語が走り出すのかもしれない。いや、今泉監督の力を借りなくたって、きっと私の周りでもいくつもの物語が動いているのだ。それに気づいていなかったり、注視していないだけで。

 

だから、『街に上で』を観て、色々呼び起こされる。

下北沢の街も青も雪も田辺さんも高橋さんもイハも全部知らないはずなのに、そこで繰り広げられている気まずさもやれたかも感も救われた感も、全部知ってるような気がする。

映画の中で彼らがちゃんと生きていたから、今から下北沢の街をふらつけばみんなに会える気がするし、彼らに会えなくたって、下北沢になって行かなくたって、自分の日常はなんというか、もっと、こう、特別なものなんじゃないかって気がしてくる。

 

だって、私だって街の上で生きているのだから。

映画になりえない日常だって、物語はちゃんと動いている。街の上で流れる数多の物語の上で私は生きていて、それらがちゃんと動いているから、街だってきっと生きている。下北沢じゃない、今この街の上でも。

『街の上で』は、ありふれた生活であっても、それがちゃんと生きているだけで物語であり映画たりうるということを、誰も見ることはないけど確かにここに存在している、街の上に走っている幾多の物語の存在を、これ以上ない方法で提示してくれている、のかもしれない。

 

私が『街の上で』を観た、テアトル梅田という小さな映画館。

要所で聞こえてくる、押し殺した笑い声。映画の最中に声を上げるなんて本来なら許せないはずなのに、気がついたら自分も笑っちゃってる。

たくさんの自分に無関係な人間と、素晴らしい作品を共有するということ。同じシーンで心が動いているという、奇跡みたいな瞬間。

二つ前の座席で、一人で観に来ていた女の子。

映画が終わった後に、「煙草持ってませんか?」なんて声をかけたら、物語が動き出すかもしれない。いや、そんなことを考えている時点で、きっともう動き出しているのだ。

ほら、劇場で観て良かったじゃんか。

 

 

総括、あるいは『坂の多い町と退屈』

これも個人的な話なのだけど、『街の上で』を観て得たものの一つとして、ラッキーオールドサンを挙げたい。

この映画の主題歌で初めてラッキーオールドサンの楽曲を耳にしたのだけど、これがまたすごく好みだった。(ハンバートハンバートが好きなので、ラッキーオールドサンのことを好きになるのも必然だったのかもしれない)

 

この映画の主題歌はもちろん、その他の楽曲も聴き漁って、今では憂鬱な出勤時の必需品になっている。

その中でも一番好きな曲が『坂の多い町と退屈』という曲。

 

❝あっという間に日は過ぎて 愛燦々と季節は巡る

あの坂の多い町に住んで 退屈している ❞

 

本当に日々はあっという間に過ぎて行って、その間に自分は何をしているのだろう。

今みたいに宅配のバイトを続けていていいのか?

本当にこのままでいいのか?

ちゃんと前に進めているのか?

いつだってそんなことを考えてしまうのだけど、『街の上で』を観てからはそんな不毛な考えにとらわれることも少なくなった。

 

あっという間に過ぎていく日々の中で、成長とか自己実現とか、本当はどうだっていいのかもしれない。

過ぎていく日々が愛燦々としているならば、その中で退屈しているのも悪くないんだよ、きっと。

『街の上で』を観ていると、なんだかそんな気がしてきた。

それはきっと、上で散々述べてきたようにこの映画の中で人が、街が、ちゃんと生きていたから。そして、それだけで物語たりえることを、この映画は証明してくれたから。

 

だから、私は五年くらい続けてきた宅配便のバイトを辞めることにした。

時間に追われて走り回って、ストレスと引き換えにそこそこの収入を得るような仕事じゃなくて、もっと愛燦々とした日々を。

『街の上で』の青みたいに、成長しなくても、気まずかったり、ままならなかったとしても、物語たりうる人生を。

 

 

こうして書きたいことを書いてみると、ずいぶんとこの映画を個人的な視点に落とし込んで観ていたのだなぁと、改めて実感する。

それもきっと、この映画がとても素晴らしかったからに違いない。

誰もが知っているような超大物俳優が出ているわけでも、万人に気に入られるようなわかりやすいストーリーがあるわけでもないけれど、それでも、いや、だからこそ、私はこの映画がとても好きでした。

円盤が発売されたら間違いなく買うし、今後も今泉監督の作品を追いかけ続けるし、いつか絶対下北沢にも行く。なんなら下北沢に住んでやる。

 

さぁ、今日は休みだから、ふらっと出かけようか。

本屋を覗いて、普段はあんまり行かない古着屋なんかに行ってみるのもいいかもしれない。戯れに煙草なんて吸ってみるのも良いかもしれない。

そんなことをしてみたら、本屋の店員さんと話している、古着屋のレジカウンターで本を読んでいる、喫煙所のベンチで煙草を吸っている、古着が似合うちょっと無気力な男性が居るかもしれない。

そして、ふと目があった瞬間に気まずそうに会釈しあったりして、あの時の映画館での暖かい失笑を思い出したりするのだ。