映画の力、戦争の意味、あるいは『プライベート・ライアン』の感想
今回は、7月12日に観た、『プライベート・ライアン』の感想文。(また一か月くらい経ってるね)
視聴のきっかけは、中学生の時に教科書で読んだ『虚構のリアリズム』という論説文で紹介されていたこと。
その論説文では、冒頭のノルマンディー上陸作戦のシーンが非常に凄惨で、それでいてリアリティにあふれているという理由で取り上げられていて、当時(確か中2とかだったはず)から、そのシーンだけでも観てみたいと思っていた。それを夜中に、いきなり思い出したって話。
とはいえ、1998年の映画。
それに、直近で『ゴジラVSコング』みたいな映像の極致を観てしまっていたから、正直まったく期待なんてしていなかった。
それでどうだったか、というのをこれからそこそこ熱く語りたいと思う。
あらすじ
ノルマンディー上陸作戦の中でも、もっとも甚大な被害が出たオマハビーチから上陸したミラー大尉の部隊。
なんとか生きて上陸に成功したものの、敵地の奥に間違って投下されてしまったライアン二等兵の救助を命じられる。(ライアン二等兵の兄弟が全員戦死してしまったので、一家を断絶させないために帰国命令が下った為)
生きているかもわからないライアン二等兵を救うために、ミラー大尉とその仲間達は敵地の奥に踏み込んでいく。
問題の上陸シーン
最初に言及したいのは、なんといっても冒頭の上陸シーン。
映画撮影の技法とか、スピルバーグ監督の手腕とか、そういうのは全然わからないので端的な感想になってしまうけれど、めちゃめちゃすごかった!
撮影された当時と比べて、これを書いている現在の方があらゆる面でクオリティの高い映像が撮れるのは明白であり、件の上陸シーンがたとえ映画史に残るものであったとしても、単純に現代の最先端映像と比べると見劣りするに決まっている。
それくらいの気持ちで見始めたはずなのに、息継ぎするもの忘れて画面に見入ってしまった。
正面から飛んでくる銃弾。
瞬く間に死んでいく兵士。
赤く染まる海。
砲撃で巻き起こる砂塵。
両耳をかすめていく銃弾の音。
ちぎれた腕。
はみ出た臓物。
泣き叫ぶ声。
生きるための怒号。
戦争なんてもちろんしたことないし、実際に見たこともないけれど、今こうして画面を通して観ているフィクションの映像は、まぎれもなく戦争だと思った。
どう考えても生き残れる気がしない悲惨な作戦に正面から立ち向かっていくことも、部下に対して死に行けと命令を下す上官も、ゴミのように死んでいく数多の兵士も、砲弾の飛び交う中で救護活動をする衛生兵も、自らも危険な状態なのに負傷した仲間を引きずって行くことも、全部実際に起こっていることのように思えた。そう思わせるだけの迫力が、息遣いが、冒頭20分に詰まっていたように思う。
「殺し合い」とか「悲惨」とか、よく耳にする淡白なイメージだけではない、もっと理不尽で、不条理で、不合理な、戦争そのもの。
正直、あまりにも状況が入り乱れすぎて、初見ではミラー大尉以外の主要な登場人物が全く把握できなかった。
でも、ミラー大尉も含めて、あの上陸作戦で生き残れたのは運が良かっただけなのだから、たまたま生き残った人間が映画の主要人物になったとすら思えてくる。
「映画史に残る20分」と言われても正直ピンとこないけれど、間違いなく自分の中の歴史にはみっちりと爪痕を残していった。(この文章を書くまでの間に、冒頭だけ3回くらい観てる)
戦場で生きるということ
ということで、冒頭の映像だけでも観てみようと思って軽い気持ちで付けたのに、結局は引き込まれるようにして本編まで観てしまい、人生で一番短く感じたと言っても過言ではない三時間を過ごすことになった。
伝説となった上陸作戦のシーンだけではなく、全編を通して傑作なのは間違いない。
個人的に強く思ったのは、戦場で生きるということが克明に、まっすぐに描写されていたこと。
ママ、ママ、と叫びなら死んでいく隊員。
命乞いをする敵兵を笑いながら撃ち殺すシーン。
いつ敵と遭遇するかわからない状態でも、煙草を吸って、仲間と軽口をたたきあうこと。
目の前で泣いている子供を見過ごせないことと、見過ごすことを命令するミラー大尉。
仲間を殺した敵兵を国際法に則って逃がすシーン、ミラー大尉のその決断に憤慨する隊員。
一人死なせたら、十人が助かったと思うしかないこと。
帰りを待っている妻に誇れる任務がしたいと語るミラー大尉。
兄弟の訃報を聞いてもなお、戦場にいる兄弟(と同等のきずなで結ばれた仲間)と戦うと言い張るライアン。
熾烈な戦いになることは明白なのに、悲しげな音楽を流して敵を待っているどこか穏やかな時間。
今は亡き兄弟との思い出を楽しそうに語るライアン。
死の恐怖を前に動けなかったアパム。そのアパムが、最後に引いた引金。
戦場で見せる笑顔も、非人道的な行為も、それでも残る倫理も、恐怖で動けないことの葛藤も、映画の中に詰まっている全部が、全部リアルだったように思う。
もちろん、戦争を体験していない自分が戦争におけるリアルなんて知るはずもないし分かるはずもないけれど、それでもリアルだと思ってしまうほどに登場人物が息をして、笑って、死んでいった。
本編視聴後にWikipediaで知ったのだけど、どうやらスピルバーグ監督はこの映画を撮影するにあたって、ライアンの捜索を行うキャストには厳しいブートキャンプを課したらしい。これによって軍人を演じるにあたってのリアリティが追及されたことは間違いないし、心身ともに追い詰められたキャスト達はブートキャンプに参加せずに撮影に臨んだライアン役のマットデイモンに対して反感を覚え、その空気感はそのまま作品にも反映されているそう。
ここまでやっちゃうスピルバーグ監督だからこそ、こんなにリアルだと思える作品になったのかもしれない。
戦争の意味、映画の力
戦争を知らない世代のわたしにとって、戦争はめちゃくちゃ恐ろしくて、目も当てられないくらい悲惨な出来事がたくさん起こっていて、だから二度と繰り返してはいけない、そんな浅い感想しかいだくことができない。
そして、そのイメージは、この『プライベート・ライアン』についても同じだった。
戦争映画である以上、きっとめちゃくちゃ恐ろしくて、目も当てられない悲惨な出来事がたくさん起こって、だから二度と繰り返してはいけないって思うんだろうな、見る前からそんなことを思っていた。
それでいて、きっと感受性が豊かすぎる自分はその目も当てられない悲惨な映像の一つ一つを深く心に刻んでしまい、トラウマのように心に植え付けてしまうのだろうということも、それらのせいでとても悲しい気分になるであろうことも、全部予想がついていた。
正直、そんな気持ちになるくらいなら、最初から見なければいい、とまで思った。
何が起こるのか大体わかっていて、どんな学びがあるのかも容易に想像がついて、それらによって自分が気持ちよくない状態に落ち込むことまでわかっているのだから、見ないという選択をとる方が賢明かもしれない。というか、見ても見なくても同じだ(めちゃくちゃなことを言っていると我ながら思う)
そんなことを思いながらも冒頭映像に対する好奇心に負けて視聴したわたしが感じたのは、映画の持つ「力」みたいなものだった。
物語の冒頭と最後、整然と並ぶ膨大な数の戦没者の墓、ミラー大尉の墓の前で「私は、頑張って生きたかな」と問いかける年老いたライアン。その後ろで見守る、彼の家族。
うまく言葉にできないけれど、その映像を見た瞬間に、これが映画の力だと、これが映画のできることだと強く思った。
この物語がフィクションであること、戦争という悲惨な史実をエンターテインメントに落とし込むことの意味、戦争映画から得るべき教訓について、いろいろなことを全部置き去りにして、鮮烈に残るイメージみたいなもの。
たくさんの戦没者の墓の前、生き残った人間が死んでいった人間を悼むこと、生き残った人間がつなぐ命。善悪とか共感とか教訓ではなく、史実としてすでに起こった戦争と、ただそこにあるもの。
本当に、うまく言葉にできないのがもどかしいのだけど、これが戦争だと思った。
それは理屈ではなくて、あらゆる要素を内包したその映画の一場面が視覚情報としてもたらしてくれた、もはや悟りに近いものかもしれない。(それならうまいこと言葉にできなくて当然だ)
きっと、実際に戦争を体験した人の言葉を聞いても、あらゆる研究や検証を重ねた末に記された本を読んでも、この気持ちには至れない。
それが視覚情報だったから、そしてこの映画が細部まで作りこまれていたからこそ、至れた極致。
アニメでもドキュメンタリーでも小説でもなく、映画でしか行けない場所を垣間見た、気がする。
総括
沢山の人に名作だと称賛されているだけあって、本当に面白かった。本当の本当に、面白かった。きっとこの先の人生で何回も見返すであろうことが容易に想像できるくらいに、面白かった。100点!