ぼくが考えたこと。

ぼく(28才、フリーター)が一生懸命考えたことについて。極個人的。

『雪沼とその周辺』

唐突に、今年からは読んだ本や映画の感想をブログ的なものに綴っていこうと思いました。もちろん自分用、ネタバレなどは基本的に考慮せず、好き勝手に、独断と偏見ばっかりで綴りたいと思います。(誰にも教えていないブログだけど、記事は公開状態なので一応の前置き。)

 

新年の一発目になる小説は堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』


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以下、文庫裏のあらすじ引用。

 

小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。

廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに、最後のゲームをプレゼントしようと思い立つ店主を描く佳作「スタンス・ドット」をはじめ、山あいの寂れた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映し出す川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説。

 

以上、引用終わり。

 

 

こうしてあらすじを丸引用(ちゃんと手打ちで引用している)してみて思うのは、文庫裏のあらすじって本当にうまくストーリーを説明しちゃってるんだよな。

特に、今作みたいにストーリーで読ませる作品ではなく、文章そのものを楽しむような作品に関しては、本当にこれくらい簡潔な文章で全部説明できちゃうんだもの。

ただ、今作は連作短編だったので、備忘録的な意味で各話のだいたいのあらすじ、簡単な感想も書き残しておこうと思う。

 

「スタンス・ドット」

表題作的な短編。今日で廃業してしまうボウリング場のオーナーが、トイレを借りに来ただけのカップルに最後のゲームをプレゼントする。

カップルがゲームに興じている間に思い出すのは、自らの人生について。

勤めていた中古車販売業を辞めて、ボーリング場を開いたこと。奥さんがまだ元気なころは軽食スペースが繁盛していたこと、元プロボウラーのハイオクさんとの出会い、仕事の視察先(アメリカ)で出会ったハイオクさんが投げた時の音にそっくりなボウリングの機械、それらを一式取り寄せてボウリング場を開いたこと、耳が悪くなって肝心な音が聞こえなくなってしまったこと。

カップルのゲームは大詰め。その最後のレーンを、主人公が投げる。奥さんが亡くなってからは一度も投げていない主人公。ハイオクさんと同じ音は最後まで鳴らせなかった主人公。補聴器を外し、いつもと同じスタンス・ドットから、最後の一球を放る。

 

描写がすごく丁寧で、時折めちゃくちゃ長い一文があったりするのに、不思議とすっと入り込んでくる。なんかいい意味でめちゃくちゃ気持ち悪い文章だ、というのが第一印象。

決して華やかとは言えない、でもつつましやかに営まれている現在の生活の描写から、そこに至るまでの過去が回想のような形式で語られるというこの小説全体を貫いている流れも、ここで提示される。

明確なオチが用意されているわけではなく、物語を放り出されたように感じたところも含めて、あんまり合わないんじゃないかと思ったのが正直なところ。

 

 

イラクサの庭」

雪沼周辺で料理教室を営んでいた小留知先生が亡くなる。今際の際に残した言葉が聞き取れなかったことを悔やんでいる。(おそらく「コリザ」と言っていた?)

語られる小留知先生との思い出。なぜ雪沼に来たのか、どんな人生を歩んできたのかは誰も知らない。教えてもらったいろいろな料理の中で、イラクサのスープだけは好きになれなかった主人公。それがいつまでも引っかかっているから、小留知先生の跡を継いで料理教室を開く気にはなれない。

先生が好きだった外国の小説に描かれる、遠方に出た息子を連れ戻す母の強さ。戦後の混乱期、知人の子供の様子を見に行った時に、その子からもらった氷砂糖。その話をしたときに浮かべた涙。先生は、あの時その子供を小説の中の母親のように連れ帰りたかったのではないか。

「コリザ」とは、氷砂糖のことだったのか。そう言おうとしたときには、雨が上がっている。

 

一話目と比べて、わかりやすいドラマの要素が強かったので、とても読みやすかった。雪沼という場所に対する理解度も徐々に増していく感じ、連作短編の強みかもしれない。

イラクサのスープが好きになれないから料理教室を継げないという罪悪感みたいな感情とか、こういった類の丁寧な小説でしか扱えない気がする。

氷砂糖をくれた子供は、本当は先生の子供だったのだろうか。真実はわからずじまいだったけれど、いやだからこそ、謎に包まれた一人の女性の生涯に思いを馳せざるを得ない。

最後に雨が止むところも、わかりやすく希望につなげて良い。

 

 

 

河岸段丘

製函工場を営む主人公。体が傾いてきたように感じる。

車にひかれて死んだ飼い犬、立地が悪い河岸段丘に工場を建てたこと、古い機械を使い、昔ながらの方法で仕事をすること、古い機械としっかり向き合って、丁寧に修理すること。衰えていく自分と友達と。

 

書くのがめんどうになってきてどんどん適当になっているけれど、この話は前述の二つよりも良かった。ずっと大切に使っている昔ながらの機械、それを修理する旧友の考え方、この小説全体を象徴するシーンな気がする。

文章とか描かれている環境とか境遇があまりにも自分と遠いから共感しにくいとか思っていた節があったけれど、この話でぐっと気持ちが近寄った。

 

送り火

旅行先でランプばかり買ってくる主人公。書道教室を営んでいる夫。

自宅の上階部分を賃貸に出したときに、書道教室を開きたいと申し出てきたのが馴れ初め。主人公とその母親も協力して、書道教室はそこそこ繁盛する。

一緒に住んでいた母が亡くなり、二人は結婚する。子供にも恵まれて幸せだったけれど、自転車が好きだった息子は台風の日に流されて死んでしまう。今年は十三回忌。

最新式の自転車ライトがあったら、流されていく息子は誰かに気付いてもらえたかもしれない。たくさん買ってきたランプの一つを今からでも持たせてやりたい、葬儀の時にそんなことを考えたことを思い出して、ランプに火を灯そうと夫に提案するところで物語は終わる。

 

部屋の賃貸から始まる恋愛、最愛の子供の死など、要素としてはかなり詰まっているのに、前出の作品同様ずっと静かで、穏やか。やろうと思えばいくらでもドラマティックにできるし、逆に言えばこんなに要素もりもりなのに穏やかというのは設定をうまく生かし切れていないともいえるのかもしれないけれど、本作はこれでいい、これが良いと思えるような短編。

傍から見たら悲惨だったり、ドラマティックに見える人生であっても、それを自らの物語として生きていかなければならない人にとっては毎日続く生活の延長上であるわけで、それをしっかりと乗り越えていけば全部過去に変わるわけであって、現在に至るまで残るのは思い出とか、関係性を盛り込んだゆるぎない営みなわけで。

個人的には告白のシーンがとても好きだった。主人公の絹代さんへ思いを伝えるために、書初めで「絹への道」(シルクロード)と書く夫。ユーモアにあふれてて、なんかすげえ微笑ましくて、とてもよかった。

こうして思ったことをそのまま綴っていると、思い入れの量がわかりやすくでるなぁ。

 

 

「レンガを積む」

古いスピーカーの下にレンガを積む主人公。

東京のレコード店でアルバイトをしていて、客を観察し、好みのレコードを進めるのが上手だった主人公。その能力を買われて社員になり、支店を任されるまでになる。

レコードからCDに切り替わる頃、仕事の不調と母親の体調を考えて、東京から雪沼に拠点を移し、自分の店を持つようになる。

商店街の隣の店舗との交流(昔からの友達同士みたいな関係への憧れ)、身長が低いことのコンプレックスと、それでも自分の強みを生かせる音楽へのこだわり。

 

 

音楽の機材的な知識がないゆえに、ちょっと入ってきにくかった。

ただ、音楽に対してこだわりのある感じとか、都会を捨ててあえて雪沼に戻ってきたところとか、共感ポイントは多い。こんな感じで商売して生きていけたら理想だなぁ。

 

 

「ピラニア」

料理店を営む主人公。料理はあんまり上手ではなくて、見習い時代から出前に出されていたけれど、最終的に一人だけその店に残った故に、お店の跡を継ぐことになる。今だって料理を極めようという気はなく、適度に、それでいて真面目に仕事に取り組んでいる。

病院食に飽きた入院患者にこっそり出前するのを頼まれる主人公、それを斡旋していた女性と出会い、結婚。自分の料理はおいしくないとずっと思っていたけれど、実は代替わりしてからおいしくなったと評判だったこと、お店の地下に設けた熱帯魚スペースの大きく育ったピラニア、魚の飼育も、料理も、何が良いのかなんて本当はわからないと独り言ちる。

 

 

冒頭のおっさんのげっぷ描写が結構気持ち悪くて萎えちゃったけど、内容はすごく良かった。

料理の腕前を突き詰めてきたわけではないけど、まじめに丁寧に積み重ねを続けたことで、最終的には先代よりも評判が良くなっている。

何か特別なドラマなんてなくていい、つつましく、勤勉で、それなりにしっかりと人生を歩んできた人の半生には、それだけで染み入るものがある、気がする。もちろん、ドラマにならない人生を物語にまで昇華させるためには、それに見合った文体が必要になるのだろうけど。

 

 

 

「緩斜面」

勤めていた会社が倒産して困っている主人公を防災設備の会社に誘ってくれた友人。

ほとんど冗談みたいなノリで人生を左右されることに多少の抵抗を覚えつつもその話に乗り、今でもその会社に勤めている。

その友人が急死した今も、墓参りの度に家に寄り、彼の家族と話す。その折に、学生時代に二人で作って飛ばした凧が出てくる。凧を上げたことがないという彼の息子と、今度凧を飛ばす約束をする。

 

正直、読んでから少し時間が経っていることもあって、あんまり覚えていないんですよな。

河岸段丘」「送り火」「レンガを積む」「ピラニア」と個人的に印象深い話が続いた故に、ちょっと薄く感じたのかもしれない。

失業時に読んでいたのがアガサクリスティの『ABC殺人事件』だったことと、出火原因を問わずに使えるオールラウンドな消火器を粉末ABC消火器と呼ぶこと。会社倒産の渦中(火中)にいる自分に消火器、と言ったちょっとダジャレじみた理由で転職を進める友人に怒るシーンがあるけれど、人生なんてたぶんそんな感じの適当さで決めた方がうまくいくことだってあるし、個人的にはそういう投げやりさ、結構嫌いじゃない。

学生時代に二人で何をするでもなくだらだら酒飲んでいるシーンも印象的。やっぱり、印象派薄くても思いを馳せる余地はいくらでもあるなぁ、とこの感想を綴りながら思う。

 

 

以上、やってみるとめちゃくちゃ長くなってしまった。原稿用紙十枚分以上書いてるじゃん。

総括としては、本当にあらすじに記されている通りで、つつましやかに、昔のものを大切にする人たちが自らの半生を振り返るようなお話。ドラマティックな恋愛も、叙述トリックも、連続殺人犯も、異世界転生もない、とーっても地味なお話。さらに言えば、結末をあえて締めずに投げっぱなしにする話も多いので、正直ストーリーとして楽しむことなんてできないのかもしれない。

これに関しては、伊坂幸太郎氏が帯で言及していることに尽きると思う。(以下引用)

 

「堀江さんの本を読んでいると、音楽を聴いている気持ちになる。頭で理解する以上に、体の隅々まで言葉が巡り、気持ちが平らかになっていく。小説の愉しみとはストーリーを楽しむことだけではない、決してそうじゃない、と教えてくれる。」(以上、引用終わり)

(個人的には、めちゃくちゃストーリーテラー伊坂幸太郎氏がこんなことを言っているのがまた面白いと思うのだけど、というのはまた別の話)

 

先が気になる、とても怖い、あるいは泣ける、とか。これらは小説を読み進める原動力のうちの大きな一つだとおもう。

その観点で言えば、『雪沼とその周辺』について、面白くなかった、退屈だったと言ってしまう人も多いかもしれない。

でも、普段からドラマティックのかけらもない、つまらない仕事やままならないことに埋められ均され埋没してしまっている人生を送っている自分自身が一番わかっているのではないか。人生なんてドラマティックでもないし、面白くないし、退屈なのだと。

だからこそ読書にドラマティックを求めるの気持ちもわかる。俺だってドラマティックな奴は好きだし。

でも、個人的にはこの『雪沼とその周辺』を読んで平凡で退屈な人生に思いを馳せる瞬間にこそ、小説を読む醍醐味を感じてしまうのも確かなのであって。柴崎友香さんの『百年と一日』と同じ種類の感動。だったのかもしれない。

 

退屈でつまらない、物語が発生していない、何が言いたいのかわからない、確かに外側から見たら、そんな風に感じるかもしれない。

でも、自分で顧みれば、他者様に語るようなものではなくても、それなりに山があって谷があって、それでいてドラマティックなこともいっぱいあったのが人生というものなんじゃないだろうか。

 

おあとがよろしいようで。