八本脚の蝶と、二本足で地面を踏みしめ生きる私
二階堂奥歯さんという方の、『八本脚の蝶』という本を読んでいます。
二十五歳という若さで自ら命を絶った筆者が、亡くなる直前まで綴っていた二年間の日記がそのまま本になったもの。
はっきり言って、興味本位で買いました。
だって、自殺した人が直前まで綴ってた日記なんて、普通に生きてたら読めないじゃない。
猟奇殺人とか、自殺とか、グロ画像とか、そんなのに惹かれる中二病の名残みたいなものを引きずりながら、嬉々としてこの本を買ってきたんですよ。(ちなみに、同時に『完全自殺マニュアル』も購入するという徹底ぶり。俺がジュンク堂書店の店員だったら、この二冊同時購入の客は飲みの席での笑い話にしていると思う。)
そして、仕事の合間に、あるいは文章を打ち込んでいる合間にちらちらと読んでいるのだけど、これがもうすごい。
最初の方なんて、全然自殺の兆候も見えない、普通の日記が続くのだけど、その時点ですんげえ面白い。
読んでいる小説に影響されてコルセットをクローゼットから取り出してみたり、アノマロカリスのフィギュアが欲しくなったり、好きな洋服や化粧品について嬉々として語ったり。
もちろん、二階堂奥歯さんが読んでいる小説を俺は読んだことがないし(そもそも読書量が桁違いだったりする)、アノマロカリスのフィギュアが特別欲しいわけでもないし、化粧品も洋服のブランドも知らないものばかり。
それでも、読んでいる小説に影響されて香ばしいことをしてしまうのも、クオリティの高いフィギュアを見つけると無駄に欲しくなってしまうのも、内向的な趣味をたしなみながらもオシャレを楽しみたいって思う気持ちも、すんごいよくわかる。それでいて俺と同じ洗顔料を使っていたりするので、もうびっくり。
なんというか、文章を読んでいるとそこに二階堂奥歯さんが生きていたことを強く意識する。
もちろん会ったこともないし、年齢もかけ離れている。読書や映画の趣味だって同じだとは言えない。
それでも、二階堂奥歯さんという女性がたくさんのものに興味を持ち、それらを心から愛していたことは文章を読んでいるだけでわかる。
自分が本当に好きなものについて、本気で語ってくれる人の言葉は、それだけで楽しい。自分の好きなものを、こうして声高に叫んでくれる人なんて、身近な友達にもいないもの。そもそも身近な友達がほとんどいないのだけど。
そして、気が付いたらスマホの検索履歴が二階堂奥歯さんの日記に出てきたものばかりになっている。
death of the reprobate
岡崎京子 Pink
食用人造少女 美味ちゃん
誘惑者 高橋たか子
外科室 泉鏡花
石井輝夫
まだ最初の60ページくらいしか読んでないのに、もうこんなに出会った。
まだまだ日記は続くから、きっとまだまだ出会える。でも、二階堂奥歯さんには、絶対に会えない。それが何だか悲しいと思っちゃうくらいには、すでに二階堂奥歯さんのことを好きになっている。
俺が勝手に顔も知らない二階堂奥歯さんのことを好きになっているだけなので、こんなことを考えるのはおこがましいけれど。
ぜひ会ってみたかった。お話してみたかった。そう思う。
これを読んだのが諸々こじらせていた思春期だったら、俺の初恋は顔も知らない二階堂奥歯さんだったかもしれない。
だから、俺もちゃんと日記付けてみようと思うんすよ。
二階堂奥歯さんが小説読んでわざわざコルセットを引っ張り出してきたみたいに、俺も二階堂奥歯さんの影響で日記をつけてみてもいいんじゃないかなって。
もちろん、こんなに長くなくてもいい(現時点で1400字超えてる)。内容が下らなくてもいい。誰にも読まれなくてもいい。意味なんてなくてもいい。
それでも、とりあえず書いてみよう。
それはきっと個人的な日々の記録にしかなりえないし、ネット上でわざわざ公開する意味も持たない駄文ばかりになると思う。でも、それでも、いつかの自分が今の自分の気持ちをなるべく鮮やかに思い出せるように、こんな夜中に二階堂奥歯さんに思いをはせているときの気持ちの肌触りを思い出せるように。そして、あわよくば将来の自分にとって、何かの種になりますように。
あわよくば、俺が死んだ後に誰かが本にしてくれたらいい。本になる程面白い文章なんて、もちろん書ける気がしないけれど。いや、そもそも俺はまだしばらく死んだりしないぞう。予定では。
今回は二階堂奥歯さんにだけスポットを当てたけど、直近ならしまだあやさん、燃え殻さん、Fさん、鈴木涼美さん、プロ奢ラレヤーさん、たくさんの人からたくさんの言葉をもらってきた(全部Twitter)。
言葉の力を信じてて、言葉の力に助けられてきて、だからこそ言葉の力で何かを為したいと思っているなら、まずは自分でも言葉を発信しないとね。
この文章を、二階堂奥歯さんに捧げる。
なんて、口が裂けても言えねえ。捧げる価値もない言葉ばっかりしか吐き出せない今の俺には。
いつかは、胸を張ってそう言えるように。
なったらいいんだけどね。
■
今日、新宿の歩道橋で首つり自殺があったらしい。大阪に住んでいる私がその事件を知っているのは、私にとって唯一のニュース源であるTwitterに載っていたからである。
Twitterとは非常に便利なもので、そこまで深く潜るまでもなくモザイクのない首つり写真が簡単に見ることができる。もちろんその写真を撮った人間はめちゃくちゃにたたかれていて、私が軽く見た限りでも『写真を撮るなんてクズかよ』という論調に占められていたように思う。
もちろん私だって死体の写真を撮るなんて非常に不謹慎であると思うし、自分が写真を撮るかどうか問われると、撮るわけがないと答える。大きな声で言わないだけで、写真を撮っている人間のことを軽蔑しているのはTwitter上の大多数意見と同じだ。でも、それがやり玉にあがるのは、写真がパブリックなネット上に拡散されているからである。ネットに挙げたりはしなくとも写真を撮った人だって絶対いるし、そもそも今回は写真を撮らなかっただけで、交通事故現場だったり芸能人を見かけたときなんかに写真を撮る人は多いんじゃないだろうか。人の生き死ににかかわらず、野次馬根性丸出しで写真を撮ることが恥ずかしいと思う人は、きっと少ない。少なくとも死体の写真を声高に批判する人の数よりは。
話を戻して、首つり死体写真の話である。
もちろん私はバッチリ見た。何なら、自分から探しに行った節すらある。もちろん『新宿 首つり 写真』なんて下品なワードで検索なんかはしなかったけれど、『どうせ誰かがアップしているだろうな』という気持ちでタイムラインを意図的に深く潜っていった。
それを見た率直な感想は、『去年大阪の大丸梅田店であった飛び降り自殺の動画よりは喰らわなかったなぁ』ということであった。
あの動画を見たときは、しばらく屋上から落ちていく人影が脳裏を離れなかった。『落下中に何かにぶつかって四肢がもげた』なんてキャッチーな話がどうでもよく感じられるくらいに、落ちていく人影が衝撃的だった。
今回の首つりに関しては、実際に首をつっている人の表情まで見えるほどに鮮明で、去年の大丸梅田と比べるとインパクトが強くて然るべきなのに、実際のところはあんまり響かなかったのが本音だ。
ここで思い至った。
死体の写真を撮る人に対しては批判的な態度をとっているくせに、私は写真を見にいったし、さらにはあんまりだったなぁ、なんて感想を抱いているのだ。
要するに、そんな風に人の死をエンターテイメントのごとく消費している自分だって、写真を撮っている人達と根本的には何も変わらないんじゃないかと。自らの手を汚しているか、汚していないか、シャッターボタンを押したか押してないかだけの差。
そして、それはTwitter上で声高に写真をアップする人々への批判を叫んでいる人達にも同じことが言えるのではないか。
だって、わざわざタイムラインを下の方までスクロールしなければ、その写真は出てこないのだから。仮にタイムラインの一番上にあったとしても、詳細をクリックさえしなければ写真が目に入ることはない。このご時世、現場の写真がネット上に挙げられることくらい誰でも想像がつく。想像がつくなら、目を逸らせるじゃないか。見なければいいじゃないか。避けることなんて簡単だろう。
だからさ、お前らも見たんだろう?見に行ったんだろう?心のどこかでは好奇心とか怖いもの見たさとか写真撮るクソ野郎を正義の名のもとに気持ちよく断罪したいという欲求があったんじゃないの?本当に嫌で不謹慎だと思うなら、いくらでも避けれたんじゃない?Twitterもそうネットもそう自分の嫌な情報は見なければいいだけなんだから。
正直、こんなことを考えている自分がとても矮小な人間に思えてくる。写真を撮る人間なんて本当にゴミクズだと思うし、それを声高に批判している奴だって、本当にそんな権利お前にあるのかよって思ってしまう。そんなことを考えてこんな風にキーボードをたたいている自分も、上から目線で悟った気になった真正のゴミクズだって思う。じゃあ今度同じような案件が起こったとき、自分は写真を見に行ったりはしないのか?下衆な好奇心を抑えられるのか?もちろん答えなんて決まっている。見に行くに決まってるだろう。もちろん写真を撮るやつはいつだって写真を撮るし、それを批判したい奴はいつだって批判する。下衆な好奇心、野次馬根性、義憤、動機はなんであれ、誰もが誰かの死をエンターテイメント的な感覚で消費したがっているのだけは、間違いないように思う。
なんというか、全部同じ場所にあるんじゃないかと思う。生きるとか死ぬとかに限った話ではなくて、例えば誰かを好きになったりとか嫌いになったりとか、優越感とか劣等感とか、いじめとかハラスメントとか、人を人たらしめるものというか、良いこととか、嫌なこととか、そんなのの全部が全部輪っかになって繋がってて、それがグルグル回っているような。
こうして何かを悟ったような顔して偉そうな文章書いている私だって、結局はこのクソみたいな輪から逃れられない。写真を撮った奴も、それを批判する奴も、悟った風な傍観者面している奴も、結局は同じ輪っかの上で踊っているだけ。それが自覚できているかどうかの差はあれど、根本的には何一つ変わらない。ゴミでクソみたいな奴ばっかりだ。
でも、きっと自ら死を選んでネット上につるし上げられている奴だって、同じ輪っかの上にいたんじゃないかと思う。不謹慎とかそういうのは置いといて、人が死んだ死んでないの話を嫌いな奴っていないんじゃないか。そうでもなければ、もっとひっそりと死ぬんじゃないかと思う。大丸梅田と言い、新宿と言い、あんなに目立つところで派手に死ぬ奴なんて、きっと同じ輪っかの上にいたに違いない。逃避なのか誰かにあてたメッセージなのか思考停止なのかはわからないしわかりたくもないしわかる必要もないけれど、自分の命をあんなふうに散らす奴なんて、絶対に同じ輪っかの上で踊ってる奴だ。しかも、写真を撮ったり、撮っている奴らを批判する奴らにすごい近い場所で踊っている奴ら。それも、馬鹿みたいに踊り狂ってる奴だったに違いない。
そんで、きっとこのクソみたいな輪っかから逃れる手段って、死ぬしかないんだと思った。いじめとか失恋とか上司とか嫁姑とか人間関係のいざこざなんて腐るほどあって、でもそれらも元をただせばきっと同じ輪っかの上の話でしかなくて、その輪っかはあまりにも大きいから生きている限りは抜け出せるようなものでもなくて。
もしかして、自殺ってこの輪っかから抜け出すための唯一の手段なのかもしれない。
そう考えたら、自殺した人に対して『先を越された』って思う感情が、ないといえばうそになる。
もちろん、私は死にたいなんて思わない。でも、この輪っかの上でしか生きられないのは、すごくつまらないと思う。クソだって思う。だから、死ぬということの有用性というか、意味はすごく身近に感じる気すらする。もしかしたら、次は自分かもと思うくらいに。
なーんてことを普段から考えて生きているから、たまに世間を騒がせるニュースや、なんてことのない日常がものすごく刺さることがある。
誰かを批判したいとか、自殺について是非を唱えたいとかではなく、ただそこにあることに対して動いた心の振れ幅を、そのまま言葉にできたらなぁ。
たぶん、そんな系のことがしたくて、私は文章を書いているんだろうなぁ、とか思ったって話。
そこそこ過激なことを言ってしまったけど、ここには主義も主張もなくて、ただの個人的な感想しかないんです。
誰も見ていないブログにだからこそ吐き出しました。誰かが見てたら、それはそれでごめんなさい。
ロックスターは死んだ
ロックスターは死んだ。
何人かの有名なロックスターや文豪が、示し合わせたように27歳で死んでしまった、ということがあったらしい。
もちろん、そのことについて調べたこともなければ調べるつもりもないので、本当かどうかはわからない。
でも、このエピソードのせいか、27歳というのは死ぬのにちょうどいい年齢なのではないかと、勝手に思っている節がある。
そんな27歳を55分ほど超過した今日この瞬間、果たしてこんな風に意味のない文章を書いていていいのだろうか、と自分でも思う。
本当はもっと意味のある文章を書かなければならないし、この先一生かけても読み切れないほどたくさんの小説があるし、なにより今は魔王が復活して世界が大変だ(今プレイしているドラクエ11の話)。
それでもこんな文章を書いていることに、もちろん意味なんてない。意味のない文章を書くのに、意味なんてあってたまるか。
じゃあなんで書いているのかというと、単純に今この脳内を占めている何とも言えないもやもやとした考え事を、一番誠実な方法で形にしたいと思ったから。誰も読んでいないブログに、憧れの浅野いにお先生のブログ風に書いてみる。今の自分にとってこれが最善かつ、最も誠実な方法だと思う。
というのは実は建前であり、本当は明日機種変更するiPhoneのバックアップ時間の暇つぶしだったりする。せっかくパソコンがついているのなら自分の小説の手直しでもしようかと思ったのだけど、せっかくの誕生日に意味があるのかないのかわからない自分の小説の手直しをすることに、どうしても乗り気になれなかったのだ。
書いている小説は誰かにとって意味を為さなければ価値が生じないけれど、今ここにこうして書いている乱文は、少なくとも来年に29歳になった自分が読んで微妙な気分になるであろうことを考えれば、確実に価値が生じる。確実に価値が生じることを行うのは、非常に気分がいい。なんだか、建設的な気分になるから。
28歳になった。
ロックスターにも、文豪にもなることはなく、それどころか正社員にも、立派な大人にもなれていない。28歳アルバイト。ウケる。
クッソ下らないバイトをしながら、自由な時間に小説を書いたり、読んだり、ゲームしたり、デートしたり。責任を負わなくていい毎日は、とても気楽で楽しい。でもそれは社会にとって、あるいは自分以外の誰かにとって意味を成しているわけではない。言ってしまえば、ここにこうして書いている誰も読まないブログと同じくらい、意味も価値もない。
社会に、あるいは自分以外の誰かに、意味を成さなくてもいいじゃないか。
確かに、そう思っている自分もいる。でも、それは27歳までの自分であり、28歳の自分はそう思っていない。正確に言えば、そう思い込み切れない。
すげえ売れたい、って思う。
できれば小説で。異世界に転生したり、チートスキルで無双したりしない、自分の美学にのっとって書いた小説で、すげえ売れたい。評価されたい。認められたい。
みんなに自慢してもらえるような人になりたい。俺の友達、こんなすげえやつなんだぜ、って。
28歳になってしまったけれど、27歳で死んでしまっても納得なロックスターや文豪みたいな人になりたい。
意味を成したい。社会に、世界に、それらを構成する最小単位である一個人に。
生きる意味なんて、多分考えても意味がないし、そんな意味を求める人生なんて面白くないし、自分には似合わないこともわかっている。
でも、やっぱり生きている意味が欲しいって思う。口座の残高とか、子供とか奥さんとか、マイホームとか車とか、なんでもいいから世間の誰にでも通用しうるものが欲しい。今こうしてキーボードをたたいている自分は、少なくともそういうものを切望している。たぶん、自分にとっての28歳って、そういうことなんだろう。
気の向くまま、思ったことだけをつらつらと書いてみた。
本当はもっと書きたいことがたくさんあるのだけど、iPhoneのバックアップが終わったので、そろそろ無理やり結びに入ろうと思う。
本当に何も考えずに書いていたら、自分でも書くつもりがないことをたくさん書いていた。
そして、書いてみたらそれが自分の中で確かに強く燃えているものなのだと、受け入れることができた。
正社員にもならず、社会に意味を成すこともなく、かなうかどうかわからない夢に押しつぶされそうになりながらも、自分をだましだまししながら生きている。こんな生活を続けていようものなら、きっと10年後には目も当てられないことになっているだろう。
人生、どこまで落ちぶれても、意外と何とかなるんじゃないかと思う。
もちろん、今のところそんなに落ちぶれていないんだけど、意外と人生ってそんなもんなのじゃないかと、心の底から思う。
でも、それじゃあいけないと思っているのが28歳の自分。売れたい、認められたい、意味のある人になりたい。少なくとも今はそう思う。
これがバースデーハイのようなものなのか、加齢に伴う危機感なのかはわからない。
でも、少なくともいまこんなことを考えている自分を忘れたくないとは思う。
来年の今頃は「去年の俺くっさ」って言ってるかもしれないし、「今年はもっと危機感やべえぞ」って言ってるのかはわからないけれど、どっちにしても今こうして変なことを考えながら28歳も生き抜いていこうと思っている自分を殺さないために、このブログはきちんと更新しておこうと思いましたとさ。
ロックスターは死んだ。
まだ僕は生きてる。
悩み事なんて今日も
不安なら明日も
その中で増え続けてく
出会いは増え続けていく
できれば死にたくないな
大人になったんだ
そんな歌を歌っているのはSUPER BEAVERという人たち。
27歳最後にこの歌を聴いて、素直に良いなって思えた自分は、きっと大人になったんだと思う。少なくとも去年の今頃の自分よりは。
ロックスターは死んだ。
でも僕は生きてる。
まだ僕は生きていく。
指先から始まる何かに期待して
眠い時はブログを書くことを習慣にしていきたいと思います。なんでもない文章をたくさん打ち込むことは眠気覚ましにぴったりだし、タイピングをたくさんするとそれだけでドヤ感が出せるのでお気に入りです。
『指先から始まる何かに期待して』というのは、今人気のあいみょんさん『今夜このまま』の歌詞の一節です。この一節があまりにも好きすぎて、この一節のために『今夜このまま』を聴いているといっても過言ではありません。
『指先から始まる何か』と言っても、指先から唐突に何かが始まるわけではないと思うんです。だって、その指先を動かしているのは自分自身だもの。
これを突いてみよう、こんな文章を書いてみよう、この人に触れてみよう、どれも結局は自分の意志で動き始めているわけです。
それならば、指先から始まる『何か』の正体なんて、自分である程度想像がつくのではないかと思うのです。そのものの見た目で触感を予測しながら触るだろうし、文章を書く時なんて頭の中で考えながら入力しているわけだし、誰かに触れたいと思った時点で、その人に対して好意的な感情を抱いているのは確定なわけですから。
それでも、指先から始まる『何か』、とこの曲では歌っています。
突いたら、意外と違った触感が来るかもしれない。文章を書いてみたら、自分でも思わない方向に本当に書きたいことが見つかるかもしれない。触れた瞬間に気付く恋だって、あるかもしれない。指先を動かすことでしか、見えてこないものなんてたくさんあるはず。
何かに触れることは、とても怖いことだと思います。
触れた指に痛みがはしるかもしれないし、自分の書いた文章が誰かに笑われるかもしれない。誰かのことを好きになっても、その気持ちが実らずに悲しい気持ちになるかもしれない。
でも、触れてみなければ何も始まらないのです。
触れてみて初めて心が動き、憶測は経験に変わり、もしかしたら新しい『何か』が始まるかもしれない。触れた結果が想像通りかどうかは、実際に触れない限りわからない。実は想像とは違う『何か』があるのかもしれない。
その『何か』のために、指先を伸ばすのです。新しい『何か』に出会うために誰かに触れたいと思うし、着地点を見定めないままにブログの編集ページを開いているのです。
大人になると、手を伸ばすことが億劫になります。
生きていくためには仕事をしなければいけないし、週末なんて平日の反動で寝ている間に終わってしまう。
新しいものに触れる以前に、今手の中に抱えているものでいっぱいいっぱいです。
でも、だからこそ僕は伸ばしていきたいと思います。このままで終わりたくないし、飯間の日々に満足しているわけでもないから。
でも、新しいものに触れるための気力なんて、早々わいてくるものでもないので、『指先から始まる何かに期待』することが必要なのかもしれません。
指先が気まぐれに選んだ文庫本に人生を変えられたなんて経験は、ざらにあるもの。『指先から始まる何か』が人生を大きく変えるかもしれないなら、何事にも触れてみないと損だと思います。
そんなことを考えさせてくれるから、僕はあいみょんさんが好きなのだと思います。
ということで、『指先から始まる何かに期待して』書き始めた文章でした。
良い感じに気分も転換できたので、新しい『何か』に期待しつつキーボードをたたき続けようと思います。
徒然なるままに
真夜中に文章を書くことに疲れてきたので、気晴らしに文章を書くことにしました。
文章の気晴らしに文章を書くなんて、バカみたいですね。でもメッセージ性とか、テーマとか、果たしてその文章が面白い文章なのかとか、考えずに書くことができるのはそれだけで楽しかったりするのです。
過去記事を読み返してみると、誤字脱字の多さに寒気がしました。テンションで書き上げるから、細かい文章の整合性やら誤字脱字などのイージーミスが多くなりがちなのが自分の悪い癖だと思います。
ただでさえ良い文章を書けるわけではないのだから、せめて誤字脱字くらいはなくしていきたいですね。
この文章を読んだ未来の自分が、少しでも今の気持ちを思い出してくれることを切に願います。
夜中まで無駄に起きていると、いろいろなことを考えてしまいます。
今やっているゲームのことや、今読んでいる小説のことなんかだったら全然いいんだけど、夜中に考えてしまうことのほとんどはが、あまりよくないことだったりする。
例えば、『大学生時代は良かった』なんてこと。
あの頃は夜が楽しかった。友達と遊んだり、ゲームをしたり。次の日の講義なんて、休んでしまえば良かった。講義をサボって遊ぶことには適度な背徳感も付随するので、余計に楽しかったりもした。
でも、今はどうだろう。
講義をサボるような気軽さで、仕事を休むことなんてできないもの。だからこそ、いくら遊びたくても、いくら眠くなくても、眠らなくちゃいけない。寝不足が原因で仕事に支障が出たら、怒られるどころの騒ぎじゃないもの。
こんな意味のない文章を書いている私は、もちろん明日の仕事が休みだ。だからこそこんな時間まで起きているのだけど、それだって純粋に楽しいわけではない。
大人になってしまったら、時間が圧倒的に足りないのだ。
読みたい小説は嘘みたいに積み重なっているし、やりたいゲームも馬鹿みたいにたくさんある。観たい映画だってたくさんあるし、そんなことをしている時間があるならば、隣の部屋で一人で眠っている好きな女の子を抱きしめに行きたいとも思う。
そう、圧倒的に時間が足りない。
この世界にはたくさんの小説があふれていて、これから先もたくさんのゲームが開発されていって、面白い映画はどんどん生み出されていく。いま付き合っている彼女と、いつまで一緒にいられるかなんてわからない。明日私が(あるいは彼女が)事故で死んでしまったら、二度と抱きしめることができなくなってしまうのだから。
今から死ぬまでの時間をすべて使っても、既に生み出されたものを消化しきることすらできないだろう。そんな状況では、一秒たりとも時間を無駄にはできない。好きな人と一緒に暮らしているなら、なおさらだ。
でも私は馬鹿だから、こんな無駄な文章を書いているのです。
私は馬鹿だから、こんな無駄な文章を書くことを楽しいと感じてしまっているのです。
そして私はどうしようもないくらい馬鹿だから、こんな無駄な文章で何かをどうにかしたいとすら思っているのです。
『無駄』は良くない。
『無駄』は省くべきだ。
でも、人生に必要な『無駄』だって、あるじゃないか。
『無駄』っていうとつまらないから、まずはそれを何とか『余白』くらいに昇格させたいものです。もっとも、それは自分の心の持ちようだとも思うのだけど。
このまま続けても何にもならないので、唐突に終わり。
あわよくば追い詰められた時の私が、この文章を読んで心に余白を作れますように。
虹の足の中にいるということ
「何か書きたいけど、何にも各気が起きない」そんなときにお題を提供してくれる仕組みはブログサイトとして素晴らしいなと思います。
ということでランダムに出てきた「ちょっとした贅沢」について。
ここで「風呂上がりのアイス」とか、「均一価格の居酒屋に行かない」とか言ってしまうとしょうもないので、ぼくらしく気持ち悪い感じの贅沢について書いてみようと思います。
個人的に思う贅沢って、「平日の14時から18時くらいの間」なんですよね。
これは学生の時からずっと思っていることで、平日の14時前後ってばっちり授業だったり仕事だったりに拘束されている時間なんです。
退屈な授業中に、ふと外をみると、外にはいろんな人が歩いている。
ぼくがこんなにつまらない時間を過ごしているのに、窓を一枚隔てた向こうがわには、何にも縛られない、あんなに穏やかな時間があるんだって。
しかも平日ってことはみんな会社や学校に行っているから、外はすごく静かなんですよね。
人が多い所や、うるさいのを嫌うぼくからすると平日の昼間って天国みたいなんです。
ぼくにとっての平日の午後は、誰にも縛られず、なににも煩わされない至高の時間で、その時間に何をしてても贅沢に感じてしまうのです。
あと、時間帯も重要です。平日の午後をのんびり過ごせるっていうことは、すなわち学校も仕事もないってこと。
これはイコール早起きする必要がないってことになります。
そうなると、午前中に起きるのは難しいでしょう。(ぼくの場合)
だから行動を始めるのは必然的にお昼からになってきます。朝起きた直後は歯を磨いたり、ご飯を食べたりするので、本当の意味で落ち着けるのが14時くらいになるんですよね。
14時。これからなんだってできるし、なにもしなくてもいい。
14時といえば、季節問わず太陽が出ている時間帯なので、外は明るく、幸せな光に満ちている気がします。
突き刺さる日差しとセミの声を聴いて夏特有のノスタルジアに浸るのもいいし、あえて寒い中外にでて太陽のほのかなあったかさを感じるのもいいですね。
ぼくの場合は、たいていカメラを片手に散歩をしたくなります。
季節ごとに太陽の光の色って明確に違っていて、そういうのをなにもかんがえずにカメラに収めていくのが好きです。
F値とか露出とかを気にせずに撮るので、ダメな写真のほうが多いんですけど、大切なのは「シャッターを切っときの気持ちを後から思い出せるか」なので問題はありません。
何にも縛られない時間だからこそ、この世界の本当の美しさを斜に構えることなくまっすぐに受け止められる気がします。
そういった何ともぼやっとしたものをとらえたくて、ぼくはカメラを握りしめて外に駆け出していくのかもしれません。
平日の昼間はいつにもまして自由に感じられるというお話なのですが、誰か共感していただける方はいるのでしょうか。
一人称の気持ち悪さも伴って、なんだかオナニーを見せつけられたような気がして胸糞が悪くなる方も多いのではないかと思います。
でもふとした瞬間に、「あ。この感じが平日の午後なのか。」と感じ取っていただけたらいいなと思います。
かの有名な詩に、「虹の足」というものがあります。
虹の中にいる人々は、虹が見えているわけではないから、幸せを感じていない。
往々にして幸せとはそんなものかもねってやつです。
この文章によって、誰かが自分を取り巻く虹の足に気付くことができたのなら、それ以上にしあわせなことはありません。
言葉にするのは難しいのですが、要するにぼくはこんな感じの日航下限が好きなんだと思います。
動機の言語化はすごく難しいけど、楽しいから好きです。
たまらなく無意味で有意義なぼくの休日
今日は一日中ゲームをしていました。
せっかくのオンラインゲームなのに、誰かとプレイするわけではなくただただ黙々こなしていました。
面白かったのかと聞かれたら、「非常に面白かった」と答えます。
しかし、終わった後のこの虚無感は、いったい何なのでしょうか。
本当はもっとやらなければならないことがたくさんあって、もっと有意義な休日にできたはずなのに。って思ってしまいます。
ということで、今回はやらなければいけないこととか、有意義ってなんだとか、そんな系の話。
家事とか、仕事とか、掃除とか、そういったことまで考えだすと、私たちの生活は「やらなければならないこと」で押しつぶされてしまいます。
「やらなければならないこと」は言い出すとキリがないので、私たちの生活から「余暇」という概念はなくなってしまうでしょう。
「やらなければならないこと」にはさまざまなことがあって、中には「おまえそれ絶対にやらなくてもいいだろ」ってことも含まれています。
たとえばソシャゲ。ソシャゲってスタミナ云々があったり、降臨ダンジョンとかの問題で、プレイする時間が限定されてくるんですよね。
だからこそ、授業とか仕事とかそっちのけでソシャゲを始めちゃったり、いつの間にか「降臨来てるからやらなきゃ…」って感じになってる気がします。
最初は無料の暇つぶし感覚で始めたゲームなのに、いつの間にかゲームの降臨ダンジョンのタイミングに合わせて生活してる。なんと恐ろしい。
ぼくが今やっているドラゴンズドグマオンラインでもそうです。
これってみんなでやったらすごく楽しいんだけど、一緒にプレイするにはぼくのレベルがすごく低いんですよね。
結果として「レベルあげなきゃ」と無意識のうちに考えてしまうんですよ。
今日のゲームももちろん楽しかったんだけど、どこかで追い詰められている感がなかったといえばうそになります。
こうした一日を終えた後にいつも思うのは、「今日一日をほかのことに使っていたらどれだけ素敵だっただろう」ということです。
ぼくの休みの使い方は無限大だったのです。
カメラ片手に散歩することもできたし、小説を読むことも、アニメ見ることだってできた。
運動不足の解消のためにジョギングすることもできたし、散らかった部屋を片付けることもできたはず。
もしこういったことを行っていれば、ぼくはいい写真を撮ってSNSでいいねをもらえてたかもしれないし、人生を生きる上でかけがえのない名作に出会えてたかもしれない。
ジョギングしたら痩せるし、部屋の掃除をしたら彼女が喜んだだろう。
それでもぼくは、一日中どことなく鬼気迫る気持ちでゲームをしていました。
そうして彼女が帰ってくるまでの貴重な時間に洗濯物をたたむことよりも駄文をまき散らす道を選んでいます。
ここまでやんやと言ってきたけど、結局ぼくにはどこかでゲームをする時間が必要だったし、今日一日を無駄だと思いながらも、今日という一日を後悔しているわけでもありません。
要するに、人生におけるこういう一日は必要悪みたいなものなのかもしれませんねってことです。
人生をより良いものにしようと思うと、娯楽なんて何もできなくなってしまうし、娯楽にも何らかの意味を求めてしまって、心の底から楽しめなくなってしまう。
アニメにも漫画にも、恋愛にも仕事にも人生にも、人間はどうしても何か意味を求めてしまうものだと思います。
でも本当は大した意味なんてなくて、せっかくの素晴らしい人生(あるいは作品、恋愛など)を、意味にとらわれすぎたせいで台無しにしてしまうのかもしれません。
自分の人生の意味について考えてもキリがないので、たまには今日のぼくのように、どうしようもないくらい無駄な時間を有意義に過ごすことが必要なのだと思います。
という風に書いてきましたが、実は結びの部分だけで30分くらいかかっています。
いつも思い立ったままに文章を書きだし、結論を何も考えないままに論理を飛躍させすぎ、完全に着地地点を見失ってしまうといういつものパターンです。
ぶっちゃけ文章をブラインドでカチカチ打てることによってるだけの感もあります。
自分でも収拾がつけられない文章を後悔しても、誰も理解できるはずがないので、今度からは最初から最後まで、何を書くか考えてから書きます。
…たぶんまたしばらく期間が空くんだろうなぁ。