ぼくが考えたこと。

ぼく(28才、フリーター)が一生懸命考えたことについて。極個人的。

 

今日、新宿の歩道橋で首つり自殺があったらしい。大阪に住んでいる私がその事件を知っているのは、私にとって唯一のニュース源であるTwitterに載っていたからである。

Twitterとは非常に便利なもので、そこまで深く潜るまでもなくモザイクのない首つり写真が簡単に見ることができる。もちろんその写真を撮った人間はめちゃくちゃにたたかれていて、私が軽く見た限りでも『写真を撮るなんてクズかよ』という論調に占められていたように思う。

もちろん私だって死体の写真を撮るなんて非常に不謹慎であると思うし、自分が写真を撮るかどうか問われると、撮るわけがないと答える。大きな声で言わないだけで、写真を撮っている人間のことを軽蔑しているのはTwitter上の大多数意見と同じだ。でも、それがやり玉にあがるのは、写真がパブリックなネット上に拡散されているからである。ネットに挙げたりはしなくとも写真を撮った人だって絶対いるし、そもそも今回は写真を撮らなかっただけで、交通事故現場だったり芸能人を見かけたときなんかに写真を撮る人は多いんじゃないだろうか。人の生き死ににかかわらず、野次馬根性丸出しで写真を撮ることが恥ずかしいと思う人は、きっと少ない。少なくとも死体の写真を声高に批判する人の数よりは。

話を戻して、首つり死体写真の話である。

もちろん私はバッチリ見た。何なら、自分から探しに行った節すらある。もちろん『新宿 首つり 写真』なんて下品なワードで検索なんかはしなかったけれど、『どうせ誰かがアップしているだろうな』という気持ちでタイムラインを意図的に深く潜っていった。

それを見た率直な感想は、『去年大阪の大丸梅田店であった飛び降り自殺の動画よりは喰らわなかったなぁ』ということであった。

あの動画を見たときは、しばらく屋上から落ちていく人影が脳裏を離れなかった。『落下中に何かにぶつかって四肢がもげた』なんてキャッチーな話がどうでもよく感じられるくらいに、落ちていく人影が衝撃的だった。

今回の首つりに関しては、実際に首をつっている人の表情まで見えるほどに鮮明で、去年の大丸梅田と比べるとインパクトが強くて然るべきなのに、実際のところはあんまり響かなかったのが本音だ。

 

ここで思い至った。

死体の写真を撮る人に対しては批判的な態度をとっているくせに、私は写真を見にいったし、さらにはあんまりだったなぁ、なんて感想を抱いているのだ。

要するに、そんな風に人の死をエンターテイメントのごとく消費している自分だって、写真を撮っている人達と根本的には何も変わらないんじゃないかと。自らの手を汚しているか、汚していないか、シャッターボタンを押したか押してないかだけの差。

そして、それはTwitter上で声高に写真をアップする人々への批判を叫んでいる人達にも同じことが言えるのではないか。

だって、わざわざタイムラインを下の方までスクロールしなければ、その写真は出てこないのだから。仮にタイムラインの一番上にあったとしても、詳細をクリックさえしなければ写真が目に入ることはない。このご時世、現場の写真がネット上に挙げられることくらい誰でも想像がつく。想像がつくなら、目を逸らせるじゃないか。見なければいいじゃないか。避けることなんて簡単だろう。

だからさ、お前らも見たんだろう?見に行ったんだろう?心のどこかでは好奇心とか怖いもの見たさとか写真撮るクソ野郎を正義の名のもとに気持ちよく断罪したいという欲求があったんじゃないの?本当に嫌で不謹慎だと思うなら、いくらでも避けれたんじゃない?Twitterもそうネットもそう自分の嫌な情報は見なければいいだけなんだから。

 

正直、こんなことを考えている自分がとても矮小な人間に思えてくる。写真を撮る人間なんて本当にゴミクズだと思うし、それを声高に批判している奴だって、本当にそんな権利お前にあるのかよって思ってしまう。そんなことを考えてこんな風にキーボードをたたいている自分も、上から目線で悟った気になった真正のゴミクズだって思う。じゃあ今度同じような案件が起こったとき、自分は写真を見に行ったりはしないのか?下衆な好奇心を抑えられるのか?もちろん答えなんて決まっている。見に行くに決まってるだろう。もちろん写真を撮るやつはいつだって写真を撮るし、それを批判したい奴はいつだって批判する。下衆な好奇心、野次馬根性、義憤、動機はなんであれ、誰もが誰かの死をエンターテイメント的な感覚で消費したがっているのだけは、間違いないように思う。

なんというか、全部同じ場所にあるんじゃないかと思う。生きるとか死ぬとかに限った話ではなくて、例えば誰かを好きになったりとか嫌いになったりとか、優越感とか劣等感とか、いじめとかハラスメントとか、人を人たらしめるものというか、良いこととか、嫌なこととか、そんなのの全部が全部輪っかになって繋がってて、それがグルグル回っているような。

 

こうして何かを悟ったような顔して偉そうな文章書いている私だって、結局はこのクソみたいな輪から逃れられない。写真を撮った奴も、それを批判する奴も、悟った風な傍観者面している奴も、結局は同じ輪っかの上で踊っているだけ。それが自覚できているかどうかの差はあれど、根本的には何一つ変わらない。ゴミでクソみたいな奴ばっかりだ。

でも、きっと自ら死を選んでネット上につるし上げられている奴だって、同じ輪っかの上にいたんじゃないかと思う。不謹慎とかそういうのは置いといて、人が死んだ死んでないの話を嫌いな奴っていないんじゃないか。そうでもなければ、もっとひっそりと死ぬんじゃないかと思う。大丸梅田と言い、新宿と言い、あんなに目立つところで派手に死ぬ奴なんて、きっと同じ輪っかの上にいたに違いない。逃避なのか誰かにあてたメッセージなのか思考停止なのかはわからないしわかりたくもないしわかる必要もないけれど、自分の命をあんなふうに散らす奴なんて、絶対に同じ輪っかの上で踊ってる奴だ。しかも、写真を撮ったり、撮っている奴らを批判する奴らにすごい近い場所で踊っている奴ら。それも、馬鹿みたいに踊り狂ってる奴だったに違いない。

そんで、きっとこのクソみたいな輪っかから逃れる手段って、死ぬしかないんだと思った。いじめとか失恋とか上司とか嫁姑とか人間関係のいざこざなんて腐るほどあって、でもそれらも元をただせばきっと同じ輪っかの上の話でしかなくて、その輪っかはあまりにも大きいから生きている限りは抜け出せるようなものでもなくて。

もしかして、自殺ってこの輪っかから抜け出すための唯一の手段なのかもしれない。

そう考えたら、自殺した人に対して『先を越された』って思う感情が、ないといえばうそになる。

もちろん、私は死にたいなんて思わない。でも、この輪っかの上でしか生きられないのは、すごくつまらないと思う。クソだって思う。だから、死ぬということの有用性というか、意味はすごく身近に感じる気すらする。もしかしたら、次は自分かもと思うくらいに。

 

 

なーんてことを普段から考えて生きているから、たまに世間を騒がせるニュースや、なんてことのない日常がものすごく刺さることがある。

誰かを批判したいとか、自殺について是非を唱えたいとかではなく、ただそこにあることに対して動いた心の振れ幅を、そのまま言葉にできたらなぁ。

たぶん、そんな系のことがしたくて、私は文章を書いているんだろうなぁ、とか思ったって話。

そこそこ過激なことを言ってしまったけど、ここには主義も主張もなくて、ただの個人的な感想しかないんです。

誰も見ていないブログにだからこそ吐き出しました。誰かが見てたら、それはそれでごめんなさい。