特急電車の車内でキーボードとタブレットで執筆するという意識の高さについて
今から白浜のアドベンチャーワールドにいってきます。
その道中でこの文章を認めているのだが、表題の通り、圧倒的な意識の高さに恐れおののいています。
ということで、今回は「意識が高いということ」についての雑記です。
「意識が高い」という言葉は、最近になってから目立つようになってきたと思います。
それも悪い意味で。
議論の対象になるのは。「それって悪いことなの?」ということです。
確かに悪くはないでしょう。誰に迷惑をかけるわけでもないし、自分にとってプラスになりえることだし。
ただ、なんとなく噛みつきたくなるのは、そこには浅はかな人間性が見てとれるからではないでしょうか。
世間的に良しとされている自分を誇示したい。その浅薄な自己顕示欲こそが「意識高い」の正体です。
そもそも「意識高い」ことをしている自分をSNSでアピールしなければいけない理由などありません。
そして本当の意味で意識が高い人、真剣に起業を志す人や、ボランティアで誰かを救いたいと考える人は、誰に話すわけでもなく、ただ黙々と、自分がするべきことを断行しているでしょう。
よく聞く「ボランティアで大切なことを学べました」という言葉。
ボランティアは自分が何かを得るために行うのではなく、切実に誰かの助けになりたいから行うものではないでしょうか。
Facebookにのせるべきなのは自分がボランティアを頑張ったという活動報告ではなく、「いかにボランティアが必要とされているか」ということ。
SNSや就職の面接でボランティアをしている自分を誇示する時点で、それはボランティアではなく、ただの意識高いアピールに成り下がると個人的には考えます。
色々なことを言っていますが、結局私個人としては意識が高くてもいいと思うんですよ。
そうまでして「いいね」をもらいたい気持ちがわからないでもありませんし、それが世間的にいいねと思われるのも理解できます。
ただ私にはどうしても浅薄に見えてしまう。本当はそれだけなんです。
でも意識高いのって気持ちいいんですよね。現に私も特急のなかでタブレットとキーボードでこれを書いてる訳ですし。
もう意識高い系の人は開き直っちゃえばいいと思います。
「私はこんなことしてんだぜ!すげえだろ!かっけぇだろ!おしゃれだろ!」っていっちゃえばいいと思います。
さりげなくスタバMacをアピールしたりするから、ボランティアに行って自分が成長できたとか言うから腹立つんです。
同じような理由で、「あたし不細工だわー」の自撮りとかも腹立ちますね。たぶん写真で伝えたいことと、文章で伝えたいこと別にしているのが気にくわないんだと思います。見ている人に汲み取ってもらおうという姿勢に腹がたつんでしょうね。少なくとも私は。
これを書いていて思ったのは、伝えたいことが多すぎるということ、そしてきちんと的を絞らずに書くと着地点がわからなくなるということ。
かなりの乱文ですが、どこかの一説だけでも、響いてくれたら幸いです。(そもそも読者がいるのだろうか)