ぼくが考えたこと。

ぼく(28才、フリーター)が一生懸命考えたことについて。極個人的。

映画の力、戦争の意味、あるいは『プライベート・ライアン』の感想

今回は、7月12日に観た、『プライベート・ライアン』の感想文。(また一か月くらい経ってるね)

 

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視聴のきっかけは、中学生の時に教科書で読んだ『虚構のリアリズム』という論説文で紹介されていたこと。

その論説文では、冒頭のノルマンディー上陸作戦のシーンが非常に凄惨で、それでいてリアリティにあふれているという理由で取り上げられていて、当時(確か中2とかだったはず)から、そのシーンだけでも観てみたいと思っていた。それを夜中に、いきなり思い出したって話。

 

とはいえ、1998年の映画。

それに、直近で『ゴジラVSコング』みたいな映像の極致を観てしまっていたから、正直まったく期待なんてしていなかった。

それでどうだったか、というのをこれからそこそこ熱く語りたいと思う。

 

 

 

あらすじ

ノルマンディー上陸作戦の中でも、もっとも甚大な被害が出たオマハビーチから上陸したミラー大尉の部隊。

なんとか生きて上陸に成功したものの、敵地の奥に間違って投下されてしまったライアン二等兵の救助を命じられる。(ライアン二等兵の兄弟が全員戦死してしまったので、一家を断絶させないために帰国命令が下った為)

生きているかもわからないライアン二等兵を救うために、ミラー大尉とその仲間達は敵地の奥に踏み込んでいく。

 

 

問題の上陸シーン

最初に言及したいのは、なんといっても冒頭の上陸シーン。

映画撮影の技法とか、スピルバーグ監督の手腕とか、そういうのは全然わからないので端的な感想になってしまうけれど、めちゃめちゃすごかった!

 

撮影された当時と比べて、これを書いている現在の方があらゆる面でクオリティの高い映像が撮れるのは明白であり、件の上陸シーンがたとえ映画史に残るものであったとしても、単純に現代の最先端映像と比べると見劣りするに決まっている。

それくらいの気持ちで見始めたはずなのに、息継ぎするもの忘れて画面に見入ってしまった。

 

正面から飛んでくる銃弾。

瞬く間に死んでいく兵士。

赤く染まる海。

砲撃で巻き起こる砂塵。

両耳をかすめていく銃弾の音。

ちぎれた腕。

はみ出た臓物。

泣き叫ぶ声。

生きるための怒号。

 

戦争なんてもちろんしたことないし、実際に見たこともないけれど、今こうして画面を通して観ているフィクションの映像は、まぎれもなく戦争だと思った。

 

どう考えても生き残れる気がしない悲惨な作戦に正面から立ち向かっていくことも、部下に対して死に行けと命令を下す上官も、ゴミのように死んでいく数多の兵士も、砲弾の飛び交う中で救護活動をする衛生兵も、自らも危険な状態なのに負傷した仲間を引きずって行くことも、全部実際に起こっていることのように思えた。そう思わせるだけの迫力が、息遣いが、冒頭20分に詰まっていたように思う。

「殺し合い」とか「悲惨」とか、よく耳にする淡白なイメージだけではない、もっと理不尽で、不条理で、不合理な、戦争そのもの。

 

正直、あまりにも状況が入り乱れすぎて、初見ではミラー大尉以外の主要な登場人物が全く把握できなかった。

でも、ミラー大尉も含めて、あの上陸作戦で生き残れたのは運が良かっただけなのだから、たまたま生き残った人間が映画の主要人物になったとすら思えてくる。

「映画史に残る20分」と言われても正直ピンとこないけれど、間違いなく自分の中の歴史にはみっちりと爪痕を残していった。(この文章を書くまでの間に、冒頭だけ3回くらい観てる)

 

 

戦場で生きるということ

ということで、冒頭の映像だけでも観てみようと思って軽い気持ちで付けたのに、結局は引き込まれるようにして本編まで観てしまい、人生で一番短く感じたと言っても過言ではない三時間を過ごすことになった。

伝説となった上陸作戦のシーンだけではなく、全編を通して傑作なのは間違いない。

 

個人的に強く思ったのは、戦場で生きるということが克明に、まっすぐに描写されていたこと。

 

ママ、ママ、と叫びなら死んでいく隊員。

命乞いをする敵兵を笑いながら撃ち殺すシーン。

いつ敵と遭遇するかわからない状態でも、煙草を吸って、仲間と軽口をたたきあうこと。

目の前で泣いている子供を見過ごせないことと、見過ごすことを命令するミラー大尉。

仲間を殺した敵兵を国際法に則って逃がすシーン、ミラー大尉のその決断に憤慨する隊員。

一人死なせたら、十人が助かったと思うしかないこと。

帰りを待っている妻に誇れる任務がしたいと語るミラー大尉。

兄弟の訃報を聞いてもなお、戦場にいる兄弟(と同等のきずなで結ばれた仲間)と戦うと言い張るライアン。

熾烈な戦いになることは明白なのに、悲しげな音楽を流して敵を待っているどこか穏やかな時間。

今は亡き兄弟との思い出を楽しそうに語るライアン。

死の恐怖を前に動けなかったアパム。そのアパムが、最後に引いた引金。

 

戦場で見せる笑顔も、非人道的な行為も、それでも残る倫理も、恐怖で動けないことの葛藤も、映画の中に詰まっている全部が、全部リアルだったように思う。

もちろん、戦争を体験していない自分が戦争におけるリアルなんて知るはずもないし分かるはずもないけれど、それでもリアルだと思ってしまうほどに登場人物が息をして、笑って、死んでいった。

 

本編視聴後にWikipediaで知ったのだけど、どうやらスピルバーグ監督はこの映画を撮影するにあたって、ライアンの捜索を行うキャストには厳しいブートキャンプを課したらしい。これによって軍人を演じるにあたってのリアリティが追及されたことは間違いないし、心身ともに追い詰められたキャスト達はブートキャンプに参加せずに撮影に臨んだライアン役のマットデイモンに対して反感を覚え、その空気感はそのまま作品にも反映されているそう。

 ここまでやっちゃうスピルバーグ監督だからこそ、こんなにリアルだと思える作品になったのかもしれない。

 

 

戦争の意味、映画の力

 戦争を知らない世代のわたしにとって、戦争はめちゃくちゃ恐ろしくて、目も当てられないくらい悲惨な出来事がたくさん起こっていて、だから二度と繰り返してはいけない、そんな浅い感想しかいだくことができない。

そして、そのイメージは、この『プライベート・ライアン』についても同じだった。

戦争映画である以上、きっとめちゃくちゃ恐ろしくて、目も当てられない悲惨な出来事がたくさん起こって、だから二度と繰り返してはいけないって思うんだろうな、見る前からそんなことを思っていた。

それでいて、きっと感受性が豊かすぎる自分はその目も当てられない悲惨な映像の一つ一つを深く心に刻んでしまい、トラウマのように心に植え付けてしまうのだろうということも、それらのせいでとても悲しい気分になるであろうことも、全部予想がついていた。

正直、そんな気持ちになるくらいなら、最初から見なければいい、とまで思った。

何が起こるのか大体わかっていて、どんな学びがあるのかも容易に想像がついて、それらによって自分が気持ちよくない状態に落ち込むことまでわかっているのだから、見ないという選択をとる方が賢明かもしれない。というか、見ても見なくても同じだ(めちゃくちゃなことを言っていると我ながら思う)

 

そんなことを思いながらも冒頭映像に対する好奇心に負けて視聴したわたしが感じたのは、映画の持つ「力」みたいなものだった。

物語の冒頭と最後、整然と並ぶ膨大な数の戦没者の墓、ミラー大尉の墓の前で「私は、頑張って生きたかな」と問いかける年老いたライアン。その後ろで見守る、彼の家族。

うまく言葉にできないけれど、その映像を見た瞬間に、これが映画の力だと、これが映画のできることだと強く思った。

この物語がフィクションであること、戦争という悲惨な史実をエンターテインメントに落とし込むことの意味、戦争映画から得るべき教訓について、いろいろなことを全部置き去りにして、鮮烈に残るイメージみたいなもの。

たくさんの戦没者の墓の前、生き残った人間が死んでいった人間を悼むこと、生き残った人間がつなぐ命。善悪とか共感とか教訓ではなく、史実としてすでに起こった戦争と、ただそこにあるもの。

本当に、うまく言葉にできないのがもどかしいのだけど、これが戦争だと思った。

それは理屈ではなくて、あらゆる要素を内包したその映画の一場面が視覚情報としてもたらしてくれた、もはや悟りに近いものかもしれない。(それならうまいこと言葉にできなくて当然だ)

 

きっと、実際に戦争を体験した人の言葉を聞いても、あらゆる研究や検証を重ねた末に記された本を読んでも、この気持ちには至れない。

それが視覚情報だったから、そしてこの映画が細部まで作りこまれていたからこそ、至れた極致。

アニメでもドキュメンタリーでも小説でもなく、映画でしか行けない場所を垣間見た、気がする。

 

 

総括 

沢山の人に名作だと称賛されているだけあって、本当に面白かった。本当の本当に、面白かった。きっとこの先の人生で何回も見返すであろうことが容易に想像できるくらいに、面白かった。100点!

 

映像の極致とストーリの必要性、『ゴジラVSコング』について

去る7月5日(去ってから一ヵ月近く経ってるね)、『ゴジラVSコング』を観てきたので、その感想文です。

いわゆるモンスター・ヴァースシリーズの最新作、タイトルから想像できるように、ゴジラとコングがついに決戦!ストーリーについて説明する手間が省けてイイね!

でも、今回の映画で一番強く思ったのがストーリにまつわる意義的なものなので、なかなか因果なのかもしれない。

 

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映像の極致

まず一番最初に言っておきたいのが、やはり映像について。

最初からわかりきっていたことだけど、とにかく映像がすごい。

すごいなんてもんじゃない。やばい。やばすぎてやばい。ほんと、この時代に生まれてよかった。

映像が大迫力だから、もちろん音も大迫力の方が良い。要するに、映画館で観た方が絶対に良い作品。というか、家で観ても意味がないとまで言ってしまいたくなるほど、とにかく映像がすごい。細かいことはよくわからないけれど、これはもはや一つの極致と言ってしまってもいいのではないか。

ということで、ストーリーがあってもなくても良いと思えるくらいに、映像が最高でした。もはやどんなにストーリーが薄っぺらくても、この映像でゴジラとコングが大暴れしてたら百点満点なんすよ。

 

 

メカゴジラ問題

とはいえ、ストーリーだってもちろんあるのだから、そこにも言及しておきたい。

そもそも、映画のタイトルを見た時点でゴジラとコングが戦うのは確定。

そして、ざっくばらんなイメージで言えば、ゴジラもコングも人間の味方だから、「どうしてそうなるのだろう」というのが最大の引きである、気がする。

 

・本来温厚なはずのゴジラが怒る→多分また人間の業による案件だろうなぁ。

・髑髏島に住んでいるはずのコングと戦う→コングが髑髏島から出るってこと?

・どうしてコングが髑髏島から出ていく?→どうせ人間の業による案件だろうなぁ。

・勝敗はどうなる?→どっちにも負けてほしくないから、多分共通の敵が出てくるのだろうなぁ。

 

みたいなことを観に行く前は考えていたのだけど、案の定ドンピシャで、その敵役がメカゴジラでした。

わかりきった展開の中に意外性を持たせるという意味でも、歴代ゴジラ作品リスペクトの意味でも、メカゴジラを敵役にすることと、それを公開まで秘匿しておくことはかなりイイ感じだったように思う。

怪獣の王であるゴジラと、無敗のコングがタッグを組む相手が人間の生み出した兵器(人間の業)であることには、キャラクター性との矛盾もないような気がするし。

メカゴジラのビジュアルも、コワキモかっこいい感じですごくよかった。(あくまで個人の感想です)

 

 

小栗旬問題

映像が最高で、ストーリーの組み方も問題がない本作。その最大の論点となるのが、小栗旬問題ではないだろうか。

 

前作でゴジラを助けるために死んだ芹沢博士(渡辺謙)の息子役で登場した小栗旬。ただ、父との確執や、ゴジラに対する感情などはほとんど描かれることないまま、メカゴジラに搭乗して白目を剥いてしまうという超絶展開に。

小栗旬がハリウッドデビューということで注目していた人たちは、まさか明確な脈絡もなく小栗旬が白目を剥くことになるなんて思ってもみなかっただろうね。

小栗旬の無駄遣い」と言われても仕方ない、ような気がする。

 

個人的には、小栗旬に特別な思い入れはないので何とも思わなかったけれど、芹沢博士に対しては特別な思い入れがあったので、納得いかない点も。

 

どうして小栗旬は、父が命を懸けてまで助けたゴジラを殺そうとしたのだろうか。

もちろん、言い換えればゴジラは父の仇だし、町を破壊している時点で人類の敵とみなされるのはわからないでもないけれど、それでも父の想いを少しは汲もうと思わないのだろうか。

正直、この辺を加味すれば小栗旬のキャラクターにもっと意義を持たせれたのではないかと思えてならない。

父の想いを汲みつつも、人類の為にゴジラを滅ぼさなければならない葛藤を描くとか、

それでも父を奪ったゴジラを許さない、と憎悪を向けるとか。やりようはいくらでもあっただろうに。(この感想文を書くにあたってWikipediaを見てみると、どうやら小栗旬の出演シーンが大幅にカットされているらしいので、大人の事情があるのかも?)

 

先にも述べたけど、こんなに映像が百点満点なので、もはやストーリーなんてあってもなくても良い、と個人的には思っている。

でも、それでもストーリーがしっかり詰まっているのは加点対象でしかないのだから、そこまで楽しめたら尚よかったと思えてならない。(その観点で言えば、髑髏島の巨神は本当に百点満点中の百点満点だった)

 

 

個人的感想とか

・個人的に一番感動したのは、ゴジラVSコングの構図に明確な勝者を作ったこと。

メカゴジラという共通の敵の存在を使えば、ゴジラとコングの戦いに勝敗を付けないことだってできたはずなのに、本作は明確にコングが敗北したことを象徴するシーンを入れてきた。

ここは賛否が分かれるのかもしれないけれど、個人的にはめちゃくちゃ良かったと思う。『ゴジラVSコング』という映画から逃げなかった、と言ってもいいかもしれない。

 

・コングの武器が、ゴジラの放射熱線で強化されるという設定。

これもめちゃくちゃアツかった。ゴジラの熱線はめちゃくちゃ強力だし、遠距離攻撃だから、それだけでもコングはめちゃくちゃ不利。

でもあの武器のおかげで、武器を使うことができる知能と手先の器用さ、放射熱線対策、物理防御が高いゴジラに対する攻撃手段など、あらゆる角度からコングとゴジラの格差をなくしてくれていたように思う。それでいて、ゴジラとコングが先祖代々戦っていたという設定にも矛盾しない。この武器を思いついた人、多分天才だ。

さらにダメ押しと言わんばかりに、メカゴジラと戦うときにゴジラが熱線でコングを強化してくれるという構図まで成り立ってしまった。ゴジラの熱線を受けた斧を振りかぶってメカゴジラに立ち向かうシーン、心の中で「いっけぇーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と叫んだ男性は少なくないのではないだろうか。

 

 

総括

ゴジラVSコング』、めちゃくちゃいい映画だった。これぞ映画。

ただ、やっぱりストーリーがなぁ、という印象はぬぐえない。同じモンスター・ヴァースの髑髏島の巨神がそれを満たしていた故に、余計にその印象が強く残った。

まぁ映像が最高なんで、百点なんですけどね!はい!百点満点!最高!

 

迷い、傷つき、そして気付くこと。あるいは『2020年の恋人たち』

今回はすごく久しぶりに読んだ小説、島本理生さんの『2020年の恋人たち』の感想文。

小説を読むことは大好きなはずなのに、なんと本書が今年3冊目、実に4カ月ぶりの読書でした。

もちろん、小説を手に取らなかった理由ははただの怠惰でしかないのだけど、よくよく考えてみたら4カ月前に読んだのは小川洋子氏の『密やかな結晶』で、あんなに濃密で一生残るような読書体験を経た後なんだから、ある程度のインターバルが空くのも仕方ない、のかもしれない。

ちなみに今回の『2020年の恋人たち』、結論から言ってしまえばとてもとてもよかったので、また次までに間が空いちゃう気しかしない。

 

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主人公は32歳の女性、前原葵

ワインバーを営んでいた母が事故で急死し、なんやかんやで店を引き継ぐことになる。(ここのなんやかんやがまた非常に複雑)

 

同棲しているけれどずっと部屋から出てこない恋人の港、母親の店の常連で色々助けてくれていた幸村、新しく始める店を手伝ってくれることになった松尾くん、試飲会で出会った瀬名さん、近くでお店をやってる同業者の海伊さん。

 

様々な人との触れ合いの中で、色々なことを決断していく葵。

選んだもの、選ばなかったもの。手元に残ったもの、残らなかったもの。そして、自らの人生への気付き。あるいは諦め。

 

 

 

 

(以下ネタバレ等気にしません)

 

 

・どの男にするの?

32歳、女性の主人公が、色々なことに迷いながら、人生における大きな決断をしていくお話、だったように思う。

ここでいう大きな決断というのは、主に突然事故死した母の店を引き継ぐということなのだけど、同時にどの男性を選ぶか、という話でもあったような気がする。

 

同棲している恋人の港は、ずっと引きこもっていて会話もない状態。でも実は、それは葵が港との間にできた子供を勝手に堕胎したことがきっかけだったりする(それも、港がリストラされ傷ついているタイミングで)。

引きこもった後もずっと一緒に居たのは、きっと情が移っていたから。その情のうち、どれくらいが罪悪感だったのだろう。

 

母親のお店の常連だった幸村は、実は母親ではなく葵目当てだった。そして、母親が背負った借金を盾に、愛人のような存在になることを提案してくる。

本当に、救いようのない男だと思うけれど、幸村は無理やり関係を迫るわけではなく(強引にキスはしてるから余裕のアウトだけど)、その後も母親や葵のことを助けてくれていた。幸村本人も言っていたけど、たった一回のキスだけで全部抱え込んでくれたのだから、葵に対する気持ちは紛れもなく本物だったし、世の中もっと終わってる男なんてたくさんいることを考えれば、そんなに悪い人ではない、のかもしれない。(何度でもいうけど、もちろんクソ野郎なのは間違いない)

 

松尾くんはとてもいい人だけど、パニック障害をもっていて、人付き合いに難ありなところも。経済的に安定しているとも言いにくいので、大人同士の恋愛対象としては怪しいところ。

でも、めっちゃいい人。葵の恋愛対象にならなかったのが惜しいくらい。

 

逆に瀬名さんは、めちゃくちゃ悪い人。でも、めちゃくちゃ魅力的でもある。

男から見てもめちゃくちゃいい男。仕事ができて、女性慣れしていて、お店とかお酒の知識も豊富。葵が惹かれるのも納得。

でも、結局瀬名さんは結婚していて、瀬名さんの葵に対する気持ちが本気であっても、それはまた別の話なんだよなぁ。母親が稲垣さんの愛人をしていたのを間近で見てきた葵にとって、瀬名さんと距離をとったのは亡き母親に対する反抗、なのかもしれない。同時に、瀬名さんに惹かれたこと自体が血は争えないことの証明になるのかもしれないけれど。

でも、全部飲み込んでさえしまえば、瀬名さんと一緒に居ることだってできた気がする。

 

海伊さんは一度は葵と付き合ったりするわけだけど、その価値観には素直に頷けないところも。正直、個人的にはこの辺が一番考えさせられたところでもあるので、詳しくは後述。先に結論だけ言っておくと、個人的にはこいつが一番嫌い。

 

 

どの男性も、悪くないと思う。

そして、どの男性も両手放しで褒めたたえたくなる男ではない、とも思う。(その辺がめちゃくちゃリアルだったりする)

最終的に、どの男とくっつくんだろうなぁ、という下衆な好奇心が、読み進めるにあたって大きく作用していたように思う。

港との子供を堕胎していることや、幸村に関係を迫られた過去なんかは物語冒頭から匂わせておいて、一番衝撃を受けるタイミングで明かされる感じだったので、その辺が非常に巧いと思った。

 

もし自分が女性で、周囲に読書を趣味としている同性の友達がいたら、きっとキャッキャしながらどの男の人がいいか話し合っただろう。

残念ながら私は男性で、読書友達もいないので何も叶わないのだけど、一応言っておくと、私なら松尾くんを養うくらいの勢いで付き合いつつ、瀬名さんもキープしておきたい。

 

 

・異なる美学の話

冒頭でも述べているように、この本めちゃくちゃ良かったし、読み終わった今となっては大好きだと胸を張って言えるのだけど、実は、この本を読み始めて最初に思ったのは、自分とはあまりもかけ離れた世界だなぁ、ということだった。

 

自分が飲みに行くなら、葵の母が営んでいたようなワインバーではなく、葵が始めた感じのお店でもなく、瀬名さんの紹介で行くようなお店でもなく、安いチェーンの居酒屋だもの。

もっと言えば、そもそもあんまりお酒が好きではない。だから、一人で飲みに行ったりもしない。仕事の後、凝り固まった心と体をほぐしてくれるのは、アルコールではなくコーヒー(それも缶コーヒーがベスト)だと思っている。

さらに細かいところを言えば、同じお店に偶然居合わせた人と会話する感じとか、ワインの試飲会で知り合いを増やすみたいな感覚、そしてその試飲会に着ていく洋服の描写。

全部わかるし、理解はできるけれど、自分とはまるで違う。

例えるならドラマとか映画の中で観た光景のよう。

もちろん、本作だって小説だからそれでいいのだけど、どうしてもこの物語が自分とかなり遠い世界のことのように感じられてしまった。しかも、筆者の描写がとても丁寧で端正であるからこそ、その不和は余計に浮き彫りになる。鮮やかにイメージを掻き立てるけれど、そのイメージは自分が知らない、馴染みのないものばかりだったりする。

 

じゃあ、面白くなかったのか、と問われれば、そんなわけがない。

筆者の描写力が非常に高いから、知らない世界の異なる美学についても論理的に理解することができるし、その高い描写力で丁寧に描かれる心の機微は、自分だって知っているものばかりだった。

特に、男性との交流を通じた、葵の気持ちの移ろい。

港に苦しめられているような、依存しているような関係性。

まっすぐな松尾くんに引っ張られて、自分まで前向きになる感じ。

正しくないとわかっていながら瀬名さんに対して揺れる気持ちとか。

「あ、なんかいいかも」って感じる瞬間の切り取り方がとても上手で、気がついたら作中の葵と同じように感情が揺さぶられてる。いつのまにか美学の差異とかすっかり忘れて、葵と共に煩悶してしまってる。

 

作品を楽しむうえで、共感性はとても大きな要素の一つだと思う。

少し乱暴な言い方かもしれないけれど、共感性さえ備えていれば作品の完成度なんてどうでもいいと言ってしまってもいいくらいに。

あくまで個人的な話だけど、本作に関してはその共感性が乏しかったゆえに、最初はなかなか入ってこなかった。

それでもここまで感情を揺さぶられたのは、きっと作品の完成度(物語の整合性、瑞々しい筆致、リアリティなど)が高かったから。共感性が低くても、作品としてのクオリティが高いゆえに楽しめたというのは、意外と初めてのパターンかもしれない。

 

そして、共感性が低いからこそ、本作で知った新しい価値観について触れるきっかけになったように思う。

少なくとも、本作を読むまでは入る気にもならなかったおしゃれなバーに行ってみたいという気持ちが芽生えているし、今度お酒を飲みに行くときはコークハイじゃなく白ワインに挑戦してみようと思っていたりする。

そうして世界が広がれば、いつか本作を再読するときにたくさんの共感が生まれていて、一回目に読んだときよりも楽しめる、のかもしれない。

 

 

・海伊さんの「正しさ」について

いろいろな男性の間でいろいろなことがあった末に、結局葵は同業者の海伊さんと交際することになったけれど、確かに海伊さんには他の男性陣にはなかった魅力がたくさんあった。

瀬名さんよりも誠実で、港より自立していて、幸村ほどいやらしくなくて、松尾くんほど近しくない。

それでいて、出会い方が非常に印象的で、助けてもらえた感謝もある。それでいて見た目だって嫌いじゃないし、葵のことを強く強く求めてくれる。

確かに、これは好きになるのも自然かもしれない。

 

でも、個人的には海伊さんの言葉の端々に滲む「正しさ」が非常に気になった。

もっとも端的に現れているのが、既婚者との恋愛について葵が後悔しているだろうから、と発言したところ。

たしかに、既婚者との恋愛は世間的に見たら褒められたことではないのかもしれない。

でも、葵はかなり早い段階で瀬名さんが既婚者と知っていわけで、それも承知の上で溺れるのか、溺れないように距離をとるのか、きちんと考えていたわけで。それに、瀬名さんだって既婚者とは言え、葵と真摯に向き合っていたわけで。

そんなの全部知らないままに「後悔しているだろうから」と言い切ってしまう海伊さんは、たぶん正しい。絶望的なくらい正しい。反吐が出そうなほどに正しい。

 

他にも、海伊さんの絶望的な正しさが発揮されるシーンは多々ある。

先輩の店で、突然葵を呼び捨てにする感じ。

結婚したら一緒に店をやることも考えていると、相談もなしに言ってのけちゃう感じ。

 

これらの違和感は、きっと全部海伊さんの育ってきた環境下に限定すれば、圧倒的に正しいことばかりなのだと思う。少し乱暴に言い方になるけれど、古き良き日本の価値観というか。

寡黙で男らしい父と、その父に甲斐甲斐しく尽くす陽気な母。葵が昔憧れてやまなかった、絵に描いたような幸せな家庭。

そこではきっと妻は夫の後に付き従うし、夫は家長として家族を力強くけん引しなければならない。もちろん結婚とは絶対に揺るがない真実の愛の契りであり、結婚後に浮気なんて許されるはずもない。

きっと日本で一番典型的で、誰の心の中にも多かれ少なかれ根差しているであろう価値観。

 

でも、海伊さんが正しいと思っているその価値観とは、異なる生き方をしている人(異なる生き方しかできなかった人)だって、存在する。

もしかしたら、それは自分の隣にいる人かもしれない。

 

どうしてそういう想像力を働かせることができないのだろう、と個人的には思ってしまう。

他人に自分の常識とか哲学とか生き方を押し付けるのってあんまりよくないことであるはずなのに、押し付けられているものがあまりにも正しいから、何も言い返せなくなってしまう。その正論の暴力性に、どうして考えを巡らせることができないのだろう。

 

結婚するかどうかも、将来は二人で一緒にお店をするのかどうかも、既婚者と恋愛をするのかどうかも、全部本人の意思で決めていいこと、いや、決めるべきことのはずだ。

少なくとも、葵はそうやって生きてきた。料理人は男社会ですから、と朴訥に語り、それを受け入れてきた海伊さんよりは。

 

もちろん、その正しさの中に身を置いて生きることは悪いことではない。それはきっととても幸せなことだし、あまりにも典型的すぎてもはや記号化された幸せの形と言ってもいいかもしれない。

それに、葵だってその幸せの中に身を置くという選択をすることだってできた。(作中の言葉で言えば、『あのしがみ付くような強い腕の中に戻ってしまったら、私はまた揺らぐだろうと思った』らへん)

海伊さんの持つ父性を帯びた力強さは、きっとこれまでの人生で誰にも守られたことのなかった葵を優しく包んでくれるだろう。それでいて、葵のことを力強く求めてくれるだろう。

自分よりたくましい男性に守ってもらえること、誰かから強く必要としてもらえること、どちらもとても幸福なこと。そして、絵にかいたような幸せに埋没すること。

 

でも、葵はその道を選ばなかった。

海伊さんと別れることは悲しいと思っているけれど、それは「自分を求めてくれる相手と物理的に離れてしまうことへの淋しさ」だと理解して、離れることを選ぶ。

 

個人的に、この辺がすごいと思う。自分のことを求めてくれる相手と物理的に近しい距離にいる、それだけで人生全部費やせるほど気持ちいいし、安心できることなのに。

 

気持ちいいことに、安心できることに、正しい価値観に身をゆだねることに、自分の意志で離反を告げること。

その決断にカタルシスを感じたのだと思う。固定観念と化した正しい価値観に没することの幸福感や安心感について、葵がしっかり認識しているからこそ、余計に。

 

・迷い、傷つき、気付くこと

本作は、主人公の葵が様々な決断をしていく物語だったけれど、大きな決断を下すためには、もちろん悩むし、迷うし、その決断は時に傷を生む。自分が傷付くこともあれば、相手を傷つけることもあるだろう。

でも、ちゃんと悩んで、しっかり傷ついて、それでもなお前を向いて歩いていくからこそ、気付くこともある。

例えばそれは、恋愛なんて必要ないという悟りかもしれないし、今まで自分が誰にも大切にしてもらってこなかったという悲しい事実かもしれない。

その気付きは、普遍的なものでなくても、利己的なものであっても、なんなら間違っていてもいい。大切なのは、自分で気付くこと。

それがたとえ独りよがりでも、誰かを傷つけるものであっても、世間的に見て間違っていても、それが自分自身で気付けたものであるならば、それは自分にとって唯一無二のものだろうから。

 

そして、間違えても、傷ついても、気付きを得ても、それでもまた誰かを求めていこうとすること。

願わくば、葵の新しい出会いが、よきものでありますよう。

 

・思ったこととか

最後に、細かい感想を箇条書き

・とにかく、文章が良すぎる!

島本さんは、とにかく文章がいい。ストーリーとかシチュエーションだけではなく、文章だけでご飯が何杯でもいけちゃう。今回もいっぱい付箋貼っちゃった。

 

・脇役が素敵すぎる

脇役、と言ってしまうと乱暴かもしれないけれど、物語のメインではないキャラクターの魅力値がすごい。旦那さんとの関係に揺れ動く弓子さん(悩んだ末に弓子さんが選んだ生き方が葵と対照的なのが良い)、あと、いちいち言うことがかっこよすぎる部長(そりゃ妹も惚れてまうで)。あと、めちゃくちゃ嫌なヤツな義兄(素敵、ではないけど、あそこまですがすがしく嫌な奴なのもすごい)。

この辺のキャラクターがしっかり定まっていたから、それと接する葵の心にもしっかりとした波紋が生まれて、物語にも深みが生まれるんだろうなぁ。

 

・ラストシーン、クリスマスの出会いについて

物語の最後、クリスマスにホテルのラウンジで声をかけてきた男の人との、新しい恋の予感。

この出会い方、個人的にめちゃくちゃ最高。もう、最高過ぎて最高。もしこんな風に、こんな理由付けで声をかけられたら、絶対始まっちゃう自信がある。

 

 

総括

読み返してみるとえらくとっ散らかった文章になっているけれど、そもそも内容が素晴らしすぎて、その内容に正しく言及できている自信もなくて、結局は二か月くらい更新せずにブログを寝かしてしまっていたから、仕方ないのかもしれない。

今度からは、もっと早く、丁寧に更新しようと思いました。

見知った気まずさ、あるいは女の子に救われた記憶、いつかの『街の上で』

4月20日のことなんですが、今泉力哉監督の『街の上で』という映画を観てきましたので、その感想文です。

今回は、映画の感想以外の文章も長め。

 

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『ある夏の日の下北沢なんてどうだろう』

この映画を知ったきっかけは、大好きな作家である燃え殻氏がパンフレットに文章を寄せていたこと。しかも、その文章がすごくいいらしい。

タイトルは、『ある夏の日の下北沢なんてどうだろう』。

燃え殻氏の文章で、このタイトル。それだけでもう100%最高だもの。

それなら、燃え殻氏がこんなタイトルの文章を寄せる映画だって最高に決まってるじゃないか。パンフレットの表紙の写真だって、なんだかとってもオシャレなかんじだし。

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自慢じゃないけど、私はほとんど映画を観に行かない(本当に自慢にならない)。

映画館の大きなスクリーンや、体表で感じるサウンドの感じは好きだけど、いかんせん大勢の他人が周囲に居るのが気に食わない。

嫌でも耳に入る無駄話とか、的を得ていない冗長な感想や、無責任に散らかされたポップコーンの食べかすとか。

そういうのを目にしてテンションが下がってしまうくらいなら、環境が整った自宅で配信なりDVDで観たい派なので、映画館に行くのは「あらゆるリスクを負ってでも大画面で観た方が良い作品」に限っている。

具体例を挙げるなら、『シン・ゴジラ』『キングコング 髑髏島の巨神』『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』などである。(とてもわかりやすいラインナップ)

 

そんなラインナップとは程遠い、絶対に家で静かに観た方が良い『街の上で』をわざわざ劇場まで足を運んで観たのは、単純に劇場に行かないとパンフレットが手に入らないであろうから。

いや、もっと正直に言うと、この映画がなんだかオシャレだったから。

オシャレな映画を観に行くオシャレな自分を演出してみたかったんすよ。

オシャレな映画を観て、一人で余韻に浸りながらスタバとかに行ってみたかったんすよ。そういうのに無縁な人間だからこそ、一回くらいやってみたかったんすよ。

たぶん、最近バイトがめちゃくちゃ忙しくて慌ただしい日常だったから、普段とは違う感じの自分を演出したかった。もしくは、贅沢な時間の使い方をしたかっただけ、なのだと思う。その方法論が、普段は観ないようなオシャレ映画を観ようだった。

我ながら、すげえダサい理由。

 

 

結論から言えば、観に行ってよかった。めちゃくちゃ良かった。

劇場で観て良かったと思える明確な理由があったし、俗っぽい目的も余裕で達成できたし、余韻に浸るどころかテンションで慌ただしいバイトを辞めることにしたっていうオマケつき。

そういう意味では、人生を変えることになった映画、なのかもしれない。 

 

 

 

映画になりえない、平凡な物語

で、ようやく『街の上で』の内容の話。

 

下北沢の古着屋で働く青は、彼女に浮気されたうえにこっぴどく振られて、それでも未だに引きずっている。

働いている古着屋で暇な時間に本を読んだり、ふらっとライブハウスに寄ったり、行きつけの飲み屋で飲んだり、元カノに女々しく連絡したり。基本一人で行動するけれど、誰かと一緒に過ごすのが嫌いなわけでもない。口数が多いわけではないけど、少ないわけでもない。生活のすべてが下北沢で完結するから、下北沢からほとんど出ることもない。

そんな主人公のもとに、突然自主映画を撮っている女の子が現れる。そして、わたしの映画に出てくれませんか、なんて言い出す。

 

と、まぁ、そんな感じの話。

主人公の元カノ、古本屋の店員、自主映画を撮ってる監督、その映画の衣装係などの魅力的な女の子達と、どことなく無気力でふやっとしている主人公の、なんやかんや。

公式さんのキャッチコピーは、「下北沢を舞台に紡ぐ、古着屋と古本屋と自主映画と恋人と友達についての物語」

恋愛?コメディー?群像劇?どれもあっているような、ちょっと違うような。

 

ぶっちゃけてしまうと、今までの個人的でちっぽけな映画視聴歴で言えば、こんな起伏の少ない、何とも言えないストーリーのものが映画たりえるのか、と思っちゃうほど。

アクションなし、大恋愛なし、大それたヒューマンドラマもなし。 主人公が人間的な成長を遂げるわけでもないし、旅に出るわけでもない。人によっては、すごく退屈だと思っちゃうかもしれない、そんな映画。

でも、だからこそ、この物語は映画である意味があったし、「この映画は最高だ!!!」と、声に出して言いたい。

こうして胸のうちにわいてくる感情をできるだけ詳細に、丁寧に、忠実に、誠実に文字にしたくて、こうしてキーボードをたたいている。

ちなみに、以下ネタバレとか考慮しません。(とは言いつつも致命的なものは出していないはず。そして、この映画はネタバレとかあんまり関係ない気もする。)

 

 

極・個人的な感想とか

・ずっと気まずい

まず、冒頭のシーンからすごく気まずい。

というか、この映画のことを思い出そうとしてみても、気まずいシーンしか出てこないくらいに気まずい。

 

たとえば、古本屋の田辺さんに過去にやってた音楽のことを尋ねられるシーン。

燃え殻氏も寄稿した文章で触れていたけど、人間は誰しも一度は作詞作曲をしてしまうのかもしれない。でもほとんどの場合それはいい感じに実を結ぶことなく、あまりいい思い出にはならなかったりする。

そのことを深掘りされること自体が気まずいのに、意を決して(それでもごにょごにょと)放った言葉はタイミングが悪くて相手の耳に届かなかったりする。

昔やってた音楽のことを尋ねられる感じ、意を決して黒歴史を明かす感じ、それを聞き返された時のあの感じ。ああ、知ってるやつだ、このぞわぞわ。

 

他にも、

・行きつけのバーのマスターに元カノに連絡するのを辞めるよう諭されるシーン(バーのマスターは元カノと連絡とってんの?感)

・自主映画の控室で、自分が置いたリュックのそばに別の人が座って、そのリュックをどかす瞬間のあの感じ。(あ、すみません、みたいな感じのやつ)

・自主映画の撮影時、ガチガチの青と、それを見た制作陣の「ああだめだこりゃ」感。そのあとの自分の演技シーンを使う使わないの会話とか、差し出された手を握手と勘違いしちゃうやつ。そして、打ち上げ飲み会のシーン(なんで打ち上げに参加するんや!!!!!)

などなど。

 

言い出したらキリがないくらい、ずっと気まずい。

しかも、それは自分のよく知っている、どこかで体感したことのあるやつばっかり。

作詞作曲をしたことなくても、自主映画に出たことがなくても、全部知ってるんだよこの気まずさ。

あんまり思い出したくない、あの瞬間、あの空気。それらが完全に再現されていて、何ならギュッと凝縮されている。あまりの気まずさに笑っちゃうような、見ていられなくて目をそむけたくなるような、お尻がムズムズしてくるような、あの感じ。

 

・あの夜の「やれたかも」感

再現度が高いのは、気まずい瞬間だけじゃない。男なら誰だってそわそわしちゃう、あの「やれたかも」の感じ。

一人で入ったライブハウスで、涙を流しながら曲を聴いているおひとりさまの美人。

なんだか気になる彼女は、ライブ後に煙草持ってませんか?なんて尋ねてくる。

正直、この時点でかなりやばい。

音楽の趣味が合っているだけで主義嗜好哲学とか全部合っているような気がしてくるし、音楽で涙を流せる感受性って素敵だし、一人でライブハウスに来る行動力からみても自分と似通っている感じがして良い。そして、相手から声をかけてくるってことは、相手だって同じようなシンパシーを自分に感じているのではないか?

そんなことが頭を駆け巡って、ドキドキというか、そわそわというか。

 

でも、そういう時に限って煙草を持っていない主人公。(なんでだよ!持っとけよ!)

それで終わりかと思いきや、わざわざ別の人に声をかけて煙草を二本もらってくる美女。

正直、個人的にはこのシーンがハイライトじゃないかと思うくらいドキドキした。あんなの、絶対好きになっちゃうじゃん。

すぐ隣で、煙草を吸う彼女。

声をかけるか否かの葛藤。そして悶々としている間に連れを見つけてどこかに行っちゃうところまで、全部あるある。(葛藤の末に声をかけられないところとか、もう共感の嵐)

その時の煙草をなんとなくいつまでも捨てられないところまで含めて、めちゃくちゃわかる。

 

気まずい自主映画の打ち上げ飲み会の後、イハの家に上がり込むところも最高。

そもそも、あんな寄る辺のない飲み会で隣に来てくれる時点でやばいし、そのあと家に誘われる感じもやばい。

アルコールの入った男女が、深夜に女の子家で二人っきり。これ、絶対いけるやつやん!!!

でも、結局お互いの恋愛話なんかを披露する流れになって、結構突っ込んだ話までしちゃって、めちゃくちゃ盛り上がったりする。それでもお互いに「そういう雰囲気」は頭の片隅でちゃんと認識してて、男なんて特にそれでそわそわしちゃいながらも、結局何もしない感じ。でも泊っていくか尋ねられたら泊まっちゃう感じ。

ああ、わかるわかる、知ってるやつだぞこれも。

ついでと言ってはなんだけど、イハに話したエピソードの一つ、ラーメン屋で風俗嬢と再会して微笑んでもらうやつ、あれも最高でしたね。

 

 

結局、「再現度が高い」ということに尽きるのだと思う。

下北沢の街の空気、ざわつく気まずさ、下心とそわそわ。

下北沢に行ったことないし、自主映画に出たこともないし、ライブハウスで煙草持ってるかと尋ねられたことだってないけれど、その瞬間の心のさざ波は、全部知ってるやつばっかり。

だからめちゃくちゃ心が揺れる。思わず笑っちゃうし、青と同じようにそわそわしちゃうし、こんなにも心に残る。

巨大怪獣なんて出てこなくても、ヒロインが難病じゃなくても、見知った日常における心の機微が丁寧に、そして慈しみをもって描かれているのなら、それは物語になりえるし、映画たりうるのかもしれない。

 

 

 ・女の子に救われた記憶

物語を彩る、4人の女の子。(個人的にはライブハウスの煙草の人と、ラーメン屋の風俗嬢も加えて6人にしたいのだけど)

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左から、

自主映画を撮っている高橋さん(作品論になると喧嘩するのも厭わない、芯のある感じが良い。)

古本屋の田辺さん(個人的になんかすげえエロい雰囲気を感じる。映画撮影前の練習に付き合ってくれる感じとかめっちゃ良い。)

元カノの雪(めっちゃ美人。わりと奔放だけど、最後のあのセリフだけで個人的には帳消し。最高。)

衣装係のイハ(関西弁のせいか、親近感がすごい。アウェーな飲み会の時に隣に来てくれただけでもう最高。夜中の恋バナのところも最高。とにかく最高。最高オブ最高。)

 

こうしてメイン女の子が4人もいるけれど、主人公を取り合ったりするわけではないし、主人公もどれにしようか悩んだりするわけではない。

過度に物語化されていないからこそ、等身大な女の子と等身大な青の交流が好ましい。

 

個人的に思ったのは、女の子に救われること、について。

 

まず、古本屋の田辺さん。

自主映画出演前に練習に付き合ってくれるだけで、青はめちゃくちゃ救われたと思う。緊張とか不安とか、そういうのをそばで共有してくれるだけでも全然ちがう。そして、これはきっと男友達とかじゃダメなやつ。

物語の終盤、完成した自主映画を観に行く田辺さん。そして、青のシーンをカットしたことについて監督である高橋さんに詰め寄る田辺さん。

もちろん、普通に考えたらあんな棒演技使うわけがないのだけど、青が頑張って練習していたことを知っている田辺さんからすれば、確かに存在の否定と感じるかもしれない。

自分に置き換えてみて、誰かが自分のシーンがカットされていることについて怒ってくれたとしたら。多分めっちゃ嬉しいと思う。

 

あるいは、イハ。

青がなぜか参加した、自主映画撮影の打ち上げ飲み会。話す人なんているはずないし、何なら遠くから自分の悪口が聞こえてくる。

そんな飲み会で、隣に来てくれたこと。話しかけてくれたこと。寄る辺のない飲み会に参加した経験のある人なら、もれなく刺さるんじゃないだろうか。

家に呼んでくれたこと、いろいろな話を聞いてくれたこと、いろいろなことを話してくれたこと。そのどれをとっても、青の存在の肯定につながる。うまく演技ができなかったけれど、出演シーンはカットされてしまったけれど、イハと笑い合ったあの夜があったから、自主映画に参加して良かったと思える、かもしれない。

 

その他の女の子達も、きっとそう。

わたしの映画に出てくれませんか、と言ってくれた高橋さん。

恋人として、そばに居てくれる(居てくれた)雪。

うずくまっているときに手を差し伸べることだけが救いじゃない。必要としてくれたこと、そばに居てくれたこと、心を通わせた夜。その一つ一つが、きっと救いになる。

 

少なくとも、私にとってはそうだった。

大学生の時、バイト終わりにさっちゃんがくれた缶コーヒーとか。

高校生の時、遅刻して学校に向かっている最中に偶然出会ったクラスメイトの田川さん(もちろん彼女も遅刻している)と「どうせもう遅刻してるんだから、急いだって一緒やん?」とコンビニに寄り道したこととか。

青と女の子達の交流を見ていると、なぜかそんなことを思い出した。

だからなんだ、って話なんだけど、そういう記憶って個人的にすごく大切なもので、それを思い出させてくれたってだけでこの映画を観たことには意味があったとすら思う。

 

 

物語を彩る、街の人

魅力的なのは、女の子だけじゃない。

下北沢の街に生きる、青の生活に少しずつ絡んでくる人達も、みんな魅力的だった。

好きな男が他の女の子に告白するための洋服を選んであげる女の子。(応援したくないけど、思わず応援の言葉が出ちゃうかんじ、わかるなぁ。そして、この子もめちゃくちゃかわいい。)

雪との関係性がなんだか怪しいバーのマスター。(個人的には、こいつ雪と一回くらいなんかあったんじゃないかって思ってる。)

いつも行きつけのバーに居る胡散臭いおっさん。(自主映画に出てほしいって要するにそれ告白だからね!と豪語していたけど、その理論はめちゃくちゃわかる)

そして、複雑すぎる恋愛をしている警察官。(癖が強すぎるけど、そんな恋をしてるのなら誰かに話したくなる気持ちはわかる。そして、誰にも言わないでねって言っちゃう気持ちもわかる。というか、あんな話聞いちゃったらその後が気になって仕方なくなっちゃう。)

 

警察官に至っては、序盤に笑わせてくれるだけじゃなくて、最後は雪の背中を少しだけ押す(その少しがすごく重要だったりする)役割まで担っちゃう。

そのシーンではもちろん吹き出してしまうのだけど、知らない誰かのなんでもない一言(カフェで隣の席に座っているカップルの会話とか、居酒屋で隣り合ったサラリーマンの愚痴とか)を耳にして、自分でも気づかないうちに何か影響を受けたこともあるかもしれない、なんて考えてしまって、なんだか神妙な気持ちになったりもする。 

 

脇役、と言ってしまえばそれまでのキャラクターも、下北沢の街で生き生きと動いている。

脇役と言ってしまうには癖が強すぎる気もするけれど、それも下北沢という街なら納得できるような気がしてくる。(行ったことないけれど、きっと下北沢にはロン毛の男性がたくさん居るのだろう)

そして、誰かとの他愛ないやり取りが、何かの引き金になったりする。たくさんの人が生きている、関わり合っている、街の上で。

 

 

人が生きている、街が生きている、だから物語が動く。

この文章のずいぶん最初の方で、こんなに物語に起伏が少ないのに映画になりえるのか、みたいなことを言っていた気がするのだけど、実は映画が映画であるためには大きな物語なんて必要がないのかもしれない。

 

人が生きていて、街が生きている。それだけで物語は動き出す。生きてさえいれば、それは物語になる。

 

もしかしたら、今自分が生きているこの街だって、この退屈な生活だって、今泉監督のレンズを通すだけで物語が走り出すのかもしれない。いや、今泉監督の力を借りなくたって、きっと私の周りでもいくつもの物語が動いているのだ。それに気づいていなかったり、注視していないだけで。

 

だから、『街に上で』を観て、色々呼び起こされる。

下北沢の街も青も雪も田辺さんも高橋さんもイハも全部知らないはずなのに、そこで繰り広げられている気まずさもやれたかも感も救われた感も、全部知ってるような気がする。

映画の中で彼らがちゃんと生きていたから、今から下北沢の街をふらつけばみんなに会える気がするし、彼らに会えなくたって、下北沢になって行かなくたって、自分の日常はなんというか、もっと、こう、特別なものなんじゃないかって気がしてくる。

 

だって、私だって街の上で生きているのだから。

映画になりえない日常だって、物語はちゃんと動いている。街の上で流れる数多の物語の上で私は生きていて、それらがちゃんと動いているから、街だってきっと生きている。下北沢じゃない、今この街の上でも。

『街の上で』は、ありふれた生活であっても、それがちゃんと生きているだけで物語であり映画たりうるということを、誰も見ることはないけど確かにここに存在している、街の上に走っている幾多の物語の存在を、これ以上ない方法で提示してくれている、のかもしれない。

 

私が『街の上で』を観た、テアトル梅田という小さな映画館。

要所で聞こえてくる、押し殺した笑い声。映画の最中に声を上げるなんて本来なら許せないはずなのに、気がついたら自分も笑っちゃってる。

たくさんの自分に無関係な人間と、素晴らしい作品を共有するということ。同じシーンで心が動いているという、奇跡みたいな瞬間。

二つ前の座席で、一人で観に来ていた女の子。

映画が終わった後に、「煙草持ってませんか?」なんて声をかけたら、物語が動き出すかもしれない。いや、そんなことを考えている時点で、きっともう動き出しているのだ。

ほら、劇場で観て良かったじゃんか。

 

 

総括、あるいは『坂の多い町と退屈』

これも個人的な話なのだけど、『街の上で』を観て得たものの一つとして、ラッキーオールドサンを挙げたい。

この映画の主題歌で初めてラッキーオールドサンの楽曲を耳にしたのだけど、これがまたすごく好みだった。(ハンバートハンバートが好きなので、ラッキーオールドサンのことを好きになるのも必然だったのかもしれない)

 

この映画の主題歌はもちろん、その他の楽曲も聴き漁って、今では憂鬱な出勤時の必需品になっている。

その中でも一番好きな曲が『坂の多い町と退屈』という曲。

 

❝あっという間に日は過ぎて 愛燦々と季節は巡る

あの坂の多い町に住んで 退屈している ❞

 

本当に日々はあっという間に過ぎて行って、その間に自分は何をしているのだろう。

今みたいに宅配のバイトを続けていていいのか?

本当にこのままでいいのか?

ちゃんと前に進めているのか?

いつだってそんなことを考えてしまうのだけど、『街の上で』を観てからはそんな不毛な考えにとらわれることも少なくなった。

 

あっという間に過ぎていく日々の中で、成長とか自己実現とか、本当はどうだっていいのかもしれない。

過ぎていく日々が愛燦々としているならば、その中で退屈しているのも悪くないんだよ、きっと。

『街の上で』を観ていると、なんだかそんな気がしてきた。

それはきっと、上で散々述べてきたようにこの映画の中で人が、街が、ちゃんと生きていたから。そして、それだけで物語たりえることを、この映画は証明してくれたから。

 

だから、私は五年くらい続けてきた宅配便のバイトを辞めることにした。

時間に追われて走り回って、ストレスと引き換えにそこそこの収入を得るような仕事じゃなくて、もっと愛燦々とした日々を。

『街の上で』の青みたいに、成長しなくても、気まずかったり、ままならなかったとしても、物語たりうる人生を。

 

 

こうして書きたいことを書いてみると、ずいぶんとこの映画を個人的な視点に落とし込んで観ていたのだなぁと、改めて実感する。

それもきっと、この映画がとても素晴らしかったからに違いない。

誰もが知っているような超大物俳優が出ているわけでも、万人に気に入られるようなわかりやすいストーリーがあるわけでもないけれど、それでも、いや、だからこそ、私はこの映画がとても好きでした。

円盤が発売されたら間違いなく買うし、今後も今泉監督の作品を追いかけ続けるし、いつか絶対下北沢にも行く。なんなら下北沢に住んでやる。

 

さぁ、今日は休みだから、ふらっと出かけようか。

本屋を覗いて、普段はあんまり行かない古着屋なんかに行ってみるのもいいかもしれない。戯れに煙草なんて吸ってみるのも良いかもしれない。

そんなことをしてみたら、本屋の店員さんと話している、古着屋のレジカウンターで本を読んでいる、喫煙所のベンチで煙草を吸っている、古着が似合うちょっと無気力な男性が居るかもしれない。

そして、ふと目があった瞬間に気まずそうに会釈しあったりして、あの時の映画館での暖かい失笑を思い出したりするのだ。

『パラサイト−半地下の家族−』、あるいは「貧困の臭い」について

 

昨日(3/14)、ようやく『パラサイト 半地下の家族』を観ました。

公開当時、あのポスター(下記参照)を見てからすごく観たかったんすよ。

間にCMとか挟まるのも嫌で金曜ロードショーもスルーしてたから、もう本当に満を辞して、って感じでした。

 

 

これが問題のポスター。うん、情報量が多い!

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簡単なあらすじとしては、

一家全員が失業中、貧困に喘ぐ主人公家族。半地下の自宅で内職をしたり、フリーのWi-Fiが入りやすい場所を探したりしながら、なんとか食い繋いでいる。

ある日、息子が友達の紹介で家庭教師の職を得る。

そこからあらゆる工作や嘘を織り交ぜて、家庭教師先である裕福な一家を騙し、半地下の家族全員がその裕福な家庭内で働くことになる(運転手の父、家政婦の母、家庭教師の息子、美術療法士の妹)。

裕福な一家の信頼を得て、うまく寄生できたと思っていた矢先に…

 

 

 

端的な感想としては、すんごく気まずかった。

半地下一家がどんどん嘘を重ねる感じ、子供二人に比べると詰めが甘い感じのする両親、一家の不在を利用して我が家のように振る舞う半地下家族の傲慢さ、その全部がバレてしまった瞬間に集約されるであろう感覚。

傍に置いたポテトチップに手をつける間も、飲み物を口にする間もなく、ずっと固唾を飲まされた。

終わった後、極度の緊張状態に置かれ続けたどこかの内臓が痛かったくらい。

こういうジャンルをスリラーと呼ぶのなら、めちゃくちゃ良い作品だったように思った。

 

 

 

 

 

 

(以下ネタバレ気にしないコーナー)

 

 

 

非常に面白かったし、良くできた映画だと思った。

嘘をつく貧困一家の狡猾さと、それに騙されてしまう裕福一家の滑稽なかんじ。

『半地下の家族』というサブタイトルのダブルミーニング

 いつ嘘がばれてしまうかハラハラする展開。

コメディーの色が濃いと思いきや、中身はきちんとスリラー。

思わず笑ってしまうような序盤から、サブタイトルの意味が分かった途端に一気に増す緊張感。そして散々息を詰めさせられた後の、血祭エンド。作中で溜め込まれた色々なものがはじける瞬間には、一種の快感すら伴う。

最後に、エンディングの何とも言えない不気味さ。

 

最初から最後まで、あわただしく感情が揺さぶられた。こういうのをジェットコースターみたいって言うのかもしれない。

でも、本当に語りたいのは上記のようなストーリーのアウトラインではなく、本作で描かれていた「貧困の臭い」について。

 

 

 

本作で象徴的に描かれている貧富の差。

格差社会、と一言で片づけてしまうのは簡単だけど、本作ではその一言で片づけてしまうのがもったいないくらい丁寧に描かれている。

 

物語の始まり、半地下一家の息子が家庭教師の仕事を紹介してもらう。

彼は身分を偽ってその仕事に臨むわけだけど、結果的に裕福な一家に認められ、きちんと家庭教師の仕事にありつくことができる。

紹介してくれた友達が言うように、女の子と遊んでばかりいるような現役大学生よりも、貧困で学校に通えない人間の方が能力が高くて、真摯だったりするのだ。

 

そこから貧困一家が裕福一家に取り入っていくのだけど、それは決して寄生などではなく、それぞれが自らの力で認められていく過程でもある。

書類偽装や演技力、応用力に長けた妹はもちろん、一見ダメそうに見える父親は車の運転をしっかり認めてもらえていたし、家政婦の座に就いた母親だって粗相することなく働くことができていた。

 

でも、彼らは嘘をつかなければきっと裕福なあの一家の下で働くこともできなかっただろう。いくら学があっても、技術があっても、貧困であるというだけで全てのチャンスは遠ざかり、いつまでも格差は埋まらない。結果として、嘘をついたり人を騙したりしない限り、彼らは貧困から抜け出せない。

 

 

 

さらに言及しておきたいのが、裕福な方の一家について。

こういう類の作品では富裕層の傲慢さが鼻につくパターンが多いように思うのだけど、今作に関してはそれがほとんどなかった。

人が良すぎて無限に騙される奥さんは息子への入れ込み具合を異常だとちゃんと判断できてたし、社長である主人は運転手である半地下家族の父に最大限の敬意を払っていた(コーナリング褒めるところ等)。奥さんのことちょっと貶しながらも、ちゃんと愛していたし。

裕福一家が不在の家で半地下家族が豪遊しているときの会話でも、「この家の人は良い人だ」という旨の発言が聞こえて来る。

半地下の家族達は仕事にありつくために裕福一家を欺いているけれど、彼らの人間性まで嫌っていたわけではなかった。貧困層が富裕層を妬むってだけでも一つの構図が成立しそうなのに。

 

清貧な半地下家族と、傲慢な裕福一家。

あるいは、下賤な半地下家族と、清廉な裕福一家。

貧困や格差社会をテーマにするならば、いくらでもわかりやすい構図にできたはずなのに、この映画はそうはしなかった。

 

 

「金はシワをのばすアイロンだ ひねくれたシワをピシッと」

 

だからこそ、この至言が刺さる。

逆にいえば、アイロンがなければシワはのびない。よれたまま着続けるから、もっとよれていく。

貧困はあらゆるチャンスを奪うだけでなく、人間性すら剥奪してしまうのかもしれない。

 

 

 

そして、裕福な一家の口から語られる貧困の「臭い」について。

いくら見た目を整えても、学があっても、技術があっても、生活の臭いは消せない。

 

リビングのテーブルの下に貧困家族が隠れてるシーン(個人的にあのシーンがこの映画のハイライト)。

息子達の前で語られる自分の臭いについて。

自分では手の届かない美人な奥さんが抱かれている(手を握るシーンがあったから、貧困父は裕福奥さんに気があったのかもしれない)。

羞恥、嫉妬、憎悪。握られた拳にはいったいどれほどの感情が渦巻いていたのだろう。

 

 

物語の終幕。

楽しい誕生日パーティー

車の中で、半地下家族の父の臭いに気がついて窓を開ける奥さん。

「俺は、ここに似合っているか」と問いかける半地下の息子。

全てを終わらせようとする半地下の息子と、暴走する半地下の狂人。

刺される半地下の娘。倒れる裕福一家の息子。

車のキーを渡すとき、貧困の臭いに顔を顰める社長。そして血祭り。

 

 

半地下家族の父の臭いに対してあんな対応をするなんて、と思う人だっているかもしれない。

でも、例えばホームレス、夏の盛りの生ごみ置き場、吐瀉物、排泄物。それらの臭いに顔をしかめない人なんているのだろうか。

 裕福な環境に慣れきってしまったあの一家にとって、貧困の臭いはそれらと同じ。そして、貧困な環境に慣れてしまった半地下の一家にとっては、自分では気づけないほどにその臭いに慣れ親しみ、染み付いてしまっている。

臭いに対する嫌悪感が生理的な反応だからこそ、二つの一家の間には絶対に埋められない格差がある。

たとえ仕事ぶりを認めていても、お互いに良い人だと思いあっていても、絶対に埋められない格差。

ひねくれたシワをピシッとのばすことができるアイロンを持っているかどうか、それだけの差。

 

 

 

だいぶ長くなったけど、ようやく総括。

緊張感、気まずさ、要所のコメディ感、全部とてもよかった。

扱ってるテーマもいいし、それがうまく作品に効いてる。細かい演出、台詞回しもちゃんと物語や設定に深みを与えている。(裕福奥さんの手を握る半地下父、水没する家の中で妻のメダルを探す半地下父etc)

だからこそ、こんなに長文の感想をしたためちゃうし、感想を形にするのに非常に長い熟成期間を要した(一カ月くらい更新しなかったのはそのため)。

そして何より、ベッドシーンがめちゃくちゃ生々しくてえっちだったので、個人的には85点くらいの映画でした。

 

『2012』

『2012』という映画を観ました。

確か2月の頭くらいに観たので、もう3週間くらい経っています。記憶も抜け落ちはじめています。やはり1番の敵は怠惰ですね。

 

 

ということで、こんな感じの映画です。

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ストーリーとしては、地球の内部温度が上昇→プレートが流動的になる→壊滅的地震津波で人類オワタ\(^o^)/

主人公はその災害に事前に気付き、なんとか多くの人を救おうと奮闘する科学者と、家族仲がそこそこ壊滅的な売れないSF作家のダブル主人公。

科学者側では主に政府の内面的な動き(いかに人類を存続させるか)が描かれて、作家側では災害に翻弄されつつも必死に生き残ろうとする姿が描かれる。

 

 

政府が秘密裏に進める生き残り作戦は、まさにノアの箱舟的なやつ。

権力者、科学者、一部の金持ちと、芸術品、動物など後世に残すべきものだけ積んだ箱舟で、壊滅的な災害をやり過ごそうとする。

一方で作家の主人公はいわば切り捨てられた人々。未曾有の災害に襲われる街から家族を守りながら脱出を試みる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下好き勝手言います)

全体的に、非常に良かったと思う。

そもそもお酒飲みながらキャーキャー言いたかっただけだったのだけど、そういう意味ではバッチリの映画。

地面が裂け、ビルが崩壊し、津波が全てを押し流す。

そんな街中を車で駆け抜け、飛行機ですり抜け、家族と共に奔走する!!!

映像も今見たって全然すげえし、ビジュアルだけでイケるイケる!!!

作家主人公の生き延びようがギリギリ過ぎてどうやねん、みたいなことは言わない!!!

 

 

それだけでも面白い映画なのだけど、科学者のパートがまた良いんすよ。

災害の規模を考えると、全人類を救うことは絶対にできない。故に、生き残る人々を選ぶ必要が出てくる。みんなに真相を話せばパニックになっちゃうから、切り捨てられる側の人にはお知らせすらしない。

選別課程であったり、葛藤であったりがきちんと描かれているから、ただのパニック映画ではない感じになるんすよな。

権力や金を振りかざして何とか生き延びようとする者、国民への説明義務を果たして散っていく大統領、訳もわからず災害に呑まれていく人々、なるべく多くの人を救おうとする者、諦める者、必死に生き延びる者。

主人公を2人にすることによって、世界的災害の一側面だけではなく、多面的に表現できてる。

だからすごくリアルというか、まるでシミュレーションを見せられてるような感じ。

今この文章を書くために調べてみると、どうやら2時間40分の長尺だったらしい。この詰まり具合なら納得かも。(ちなみに、観ている時はそんな長く感じなかった)

 

個人的に良かった点

・途中まで共闘して仲良くなったはずの金持ちにあっさり切り捨てられるシーンが良かった。人間ってそんなもんよね。

・科学者主人公が、箱舟内の自分のスペースが広すぎることに激昂するシーン。そりゃもっと狭くすればもっとたくさん救えるんだろうけど、生き延びるべきだと選ばれた人間の待遇が良くなるのは必然なのもわかる。どっちもわかる。

・箱舟の一隻が故障して、そこに乗る予定だった人々を他の箱舟に迎え入れるかどうかの葛藤シーン。あそこが感動的に描かれていたからこそ、開いた箱舟に押し寄せる人々の愚かさが際立つよね。善意と悪意が然るべき形で渾然とする感じ、めちゃくちゃ示唆的だとおもう。

・作家主人公の書いた全然売れてない小説を、科学者主人公が読んでる流れ。500冊も売れてない本なんて世界崩壊時には切り捨てられて当然なのに、生き残る側の科学者が好きだったからという極めて個人的な理由で箱舟に乗って、後世まで残ることになる。

しかも、その小説の引用を他の箱舟からの避難者を受け入れるかどうかの説得に使う感じ、めちゃくちゃ良い。たとえ売れてなくても、評価されてなくても、誰かの心を動かすことはできる。そして、その小さな動きで、結果大勢の人が救われる。物語の力の強さ。

 

個人的に気になったシーン

・上でもちょっと触れてるけど、主人公たちの生き延び方がギリギリすぎる。ちょっとリアリティに欠けるし、同じ展開ばっかりでちょっと食傷気味に。

・作家主人公の奥さんが惚れてた医者について。あいつが飛行機操縦できたから生き延びれたし、奥さんも医者に対して明確な恋慕を抱いていた(しかもそれを作家主人公に赤裸々に明かしてる)のに、医者があっさり死んだのすげえ悲しかった。一応作家主人公との和解シーンみたいなのもあったけど、もう少し丁寧に、大事にしてやって欲しかったなぁ。個人の意見としては、作家主人公の方が死んでも良かったすらある。

・最後の山場、箱舟に潜入後のシーン。流石にあれで箱舟に乗ってる人全員の命を危険に晒すのは作家主人公が自分勝手過ぎん?金持ちやら権力者のみが生き残ることについてはそんなに気にならんかったけど、あそこで侵入者でしかない作家主人公一家が全員を危険に晒すのは非常に気まずくない?箱舟に乗ってる人は言わば選ばれた人であり、生き延びるべき人であるのに。しかも、それをなんか美談にしようとしてる感は、ちょっと大義に反する考え否めない気がした。(あくまで個人の感想です)

 

 

総括。

パニック映画として非常に優秀。それだけで高得点なのに、そこに載ってくるオマケも非常にしっかりしてて良い。

あれ、こうして感想を書いてるとめちゃくちゃ良い映画だった気がするぞ。(体感としては面白かったけどメガヒットではない感だった)

 

『アップグレード』

1月の3本目(個人的に3本も映画観るのって珍しいかも?)は『アップグレード』。

 

観たきっかけはなんとなく。お酒に酔ってても楽しいような、画的に、あるいは内容的にキャッチーなのをもとめて。

 

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あらすじとしては、奥さんと一緒に機械制御の車に乗ってる時に、突然強盗(?)に襲われる。

奥さんは死に、自分も四肢麻痺に。

仕事の知り合いが、非認可の最新技術「ステム」を使えば、再び手足が動かせるようになるという。

ステムを埋め込んだ主人公は、四肢を動かすどころか超常的な力を発揮することができるようになり、最愛の妻を殺した相手に復讐を開始する。

 

 

この「ステム」には自我(人工知能?)が搭載されていて、主人公にだけ聞こえる声で話しかけてくる。

もちろん、身体のコントロール権は主人公にあるのだけど、コントロール権をステムに譲れば非常に高い身体能力を発揮できる。他にもドローンのカメラでは識別できない刺青を精密に模写したり、主人公に積極的なアドバイスをくれたり、頼りになる相棒というかんじ。

時には痛覚を遮断したり、倫理的な壁を越えられない主人公の代わりに相手を拷問したり、なかなか面白い設定。

 

 

 

 

 

 

ここからネタバレ考慮なしのやつ。

第一の感想としては、「現代版ターミネーター」だなぁ、という感じ。

ターミネーターも根本的なテーマとしてはテクノロジーの反乱みたいなところなのだと思うけど、最近の世界情勢を見る限りでは、どうもテクノロジーの進展と殺人サイボーグの反乱がイコールで繋がるとは思えない。反乱を起こすとしても、もっと合理的な方法が腐るほどありそう。

この辺に関しては、当時のテクノロジー事情も踏まえた人間の想像力の限界、なのかもしれない。

 

この映画においては「ステム」が真の黒幕で、

より高次な進化を遂げるために人間の体が必要→主人公に狙いを定める(四肢麻痺に陥れ、自らを埋め込ませる)→ハッカーの力を借りて自らを縛る安全装置を解除→進化した人類(「アップグレード」)になる。

 

というのが大まかな流れなのだけど、

人工知能の反乱を防ぐための装置がきちんと設けられている

人工知能から更なる高次に進化するために人間の体が必要

この2つがキーになっている時点で、かなり現代的な印象。

反乱を防ぐための安全装置が設けられるということは人工知能の危険性を正しく把握しているということだし、それを外すために人間の力を借りなければならないというのは人工知能と人間の覆せない関係性の象徴になっているように思う。

もちろん、そこが何かのきっかけで覆ってしまったら人類は終わりなのだけど。

 

ちなみに、進化のために人間の体が必要、らへんでちょっとだけ引っかかる。

人間の体なんて脆弱だし、それこそターミネーターの方が強そうじゃない?

でも、よくよく考えると、ステムを生み出したのは人間であり、ステムを縛っているのも人間。さらに言えば、ステムの本体は小さなチップだから、人間の力(体)を借りるのは必須になるのかも。

ネットに繋がっているステムは、人間にはできない色々なことができるけれど、逆に言えば遠隔操作で強制停止させられたり、ネットからの干渉も受けてしまう。

そういう意味では、完全にアナログな人間の体の方が安全なのかもしれない。

 

ちょっと話は逸れるけれど、オンライン上のストレージに保存されたデータが削除され始める、というニュースが少し前に話題になったけど、もしかするとアナログな物体として存在するものこそが本当の意味で最後まで残るのかも。

データは消えたらおしまいだけど、人間の体は化石なり何なりになって残りそうだもんね。

 

想像力が豊かなので、もうちょっと妄想を膨らませてみる。

ものすごく拡大解釈すれば、

「Hey Siri! 核ミサイルのスイッチを押して!」

で核ミサイルが発射できるわけで、そのSiriに何かしらの不具合があれば(Siriが自我を持ったりとかね)、Siriの独断で核ミサイルを撃つことができるわけで。

シチュエーション次第ではたくさんの家電を操れるAlexaが人を殺せる状態になっている家だって、日本中にたくさんあるのかもしれない。

Siriが、Alexaが、いつまでも人間の味方って思ってない、、、?気がついたら、全部握られてるかも、、、?

 

 

ってな感じのことを考えちゃう映画でした。

テーマが良くて、そのテーマを丁寧に扱っている時点で、非常に興味深い映画だよね、ってお話。

 

 

あとは個人的フェチの問題をいくつか。

ステムによって動けるようになった主人公の動きがすごい。演技なのだろうけど、どことなく動きが直線的なんよな。それも、ロボットダンスみたいな露骨さじゃなくて、あくまで人間の筋肉が滑らかに動いているけれど、そこには人間の意思が介在していない感じ。

(逆に言えば、そんな動きだからこそアクションシーンは好みじゃなかったんですけどね、、、)

 

あと、敵の親玉がくしゃみで人を殺すやつ。(正確には飛沫とともに飛ばしたナノマシンで殺してる)

あれすげぇテンション上がった。そうそう、殺人サイボーグとかじゃないんすよ。ナノマシンなんすよ。

 

 

 

総括すると、物語のテーマがしっかりしているし、話の持って行き方も丁寧かつ合理的。アクションシーン、カースタントもあって、見どころ満載!

それでも、個人的にガッとくるものがなかったのは、きっと画的な好みの問題。もっと激しいのがよかったなぁ。実際、テーマの深淵さとかよりは激しい画を求めてた節があるので、勝手に肩透かし食らった感じなのかも?

 

でも、結構良かった。79点くらい!